見出し画像

しがない思想文:後天的生命倫理

『命』の定義

 次の話題である。人権思想をたっぷり皮肉らせてもらったところで、そこから派生する話である。現代人は自由を履き違えている。それは俗に言われる『自由を履き違えた悪い行動』などの文脈で使われるのとは真逆の意味であり、自由を振りかざして論理性を破綻させようとしていることが多い。そしてそれは、次のように多大な影響を生んでいる。

 例えば、生きる自由。これは万人に与えられたというが、与えたのは国家ではなく、そもそも与えられたものでもない。しかもそれは、どちらかといえば生きる『自由』ではなく、生きる『決まり』である。私は考えられるもの、即ち論理性の破綻しないものには全て、対称性が必要だと考える(自然科学を除く)。生きる自由を謳っておきながら、現代社会に死ぬ自由は存在しない。それは、命とは尊いものである、とする考え方からきているのだろう。しかし、命とは何であろうか。少しでも考えたことがあるだろうか。こんな思考実験がある。ひよこをすりつぶしたとき、何が失われたのか。多くの人は、『命』が失われた、と答えるだろう。では、『命』の定義を答えてみてほしい。命とは何か。多くの人は、『生きている』と答えるだろう。では、『生きている』とはどのような状態か。すると、『命がある』と答えるのではないだろうか。いや、少し造詣の深いものならば、細胞が分裂を続けている状態、と答えるかもしれない。しかし多くの人にとってこの質問は、ただの循環論法テストになっていて、自らの論理性のなさを露呈させるだけのものに過ぎない。そう、『命』とは極めて感覚的な概念なのである。

 それはヒトが雄大な自然を目にしたとき、赤ちゃんが生まれ落ちるシーンを目にしたとき、あるいはえっちなシーンかもしれない。しかし、それら全ては、ただの化学的現象に同じ生命の側から感じる主観的な概念を以て、それをタブーとしているに過ぎない。いわばこの『命』に対する人々の認識は、一種の宗教的信仰の名残なのである。科学革命による対象化のフェーズが終了した現代社会において、一個人のスケールにおいてならまだしも社会全体がそのような風潮によって過度に一個体の生命を神聖視するのはよくない傾向であると言える。例えば、生物学の界隈でよく使われる実験用の動物としてマウスがある。なぜマウスが使われるのかと言えば、ヒトの代替になり得て、つまりヒトに生理的性質が近しいもので、かつサイクルが高速で、コストが安い動物を探したらマウスが最適任だったからである。よく巷では『動物が可哀想! 動物実験断固反対!』などと騒いでいる連中がいるが、現状人体実験が許されていないのに動物実験まで禁止されてしまったら、細胞実験のみで新薬などのヒトに対する安全性を立証しろと言うのであろうか。動物実験に反対するということは、実験用のヒトを用いてよいとするのなら辻褄が合うのか、と思いつついつも眺めている。そう、動物実験はどこまでも苦肉の策なのだ。本当なら、ヒトに対する影響を調べたいのならヒトそのもので実験するのが最も確実だし、ヒトのことについて調べたければヒトそのものに直接操作を加えるのが最確実である。しかしそれが安易にできないからこそ、生物学者や生化学者(巷では雑に『科学者』とひとまとめにされがち)たちは動物実験をしているのである。私は、前述した思考実験については、私なりの答えを出すとするならば、あえて言えば『分子間結合、それによる化学的活性が失われたことによって結果として生体反応が止まり、我々はそれを『死』と表現する』だけの話であると考える。というか、客観的にはそれしか起こってないはずである。

 そもそも、『死』とは極めて進んだ概念である。死は進化の過程でもたらされた、古い形質を持つ個体を淘汰し、遺伝子の多様性を増やすために遺伝子が考えついた、『多様性』の象徴なのだ。有性生殖の始まりは、死の始まりとほとんど同義である。実際、無性生殖をする生物は、外部要因による物理的な消滅でない限り、死ぬことはない。さらに、自分の分身を生み出すことで生殖するため、いわば菌類などの種においては全ての個体がクローンである。ではもう一度訊こう。『命』とは何だろうか。あなたは本当に、この期に及んでまだ『生きていること』という謎の答えが出せるのだろうか?

 では生命倫理とは一体何なのだろうか。それは本当に、所謂根源的な『同種の動物を殺すことによって生まれる種全体の不利益』によって生まれた、根源的な倫理感なのだろうか? 狩猟採集社会において(つまりヒトが有史以来の殆どを過ごした形態の原始社会、生物学的なヒトが強く残っていた時代)、本当に他種の動物を殺めることについての罪悪感など存在したのだろうか。そして答えは勿論否である。なぜなら、『狩猟』採集社会と銘打っているように、当時は他種の動物を狩ることによって、食料を確保していたからである。食料がなければ、当然死ぬ。他種の動物を殺すことによって自らの明日の生死が分かれるような社会で、それについて罪悪感が芽生えていたはずがない。他種の動物を殺すことによる罪悪感が生まれたのは、恐らくは農耕社会が始まって、家畜を農業の助手として用いだしたころに、家畜について情が芽生えた個体が、家畜を初めてタンパク源として摂取(家畜にはその目的も当然あった)するときに初めて感じた感情だろう。無意識に家畜を家族、つまり共に農業を営むコミュニティの一員として認めてしまっていて、家族を殺すことに強い忌避感を覚えてしまった、ということである。実は、西洋においては地理的要因などの様々な原因によってこの忌避感が生まれなかったそうなんだが、それはまた別の機会にしよう。

 そう、同種のヒトに対する忌避感ならまだしも、他種に対する忌避感は全くもってヒトという種に予め備わったものではなく、あくまで農耕社会、国家社会へと移行していく過程で身についたものなのである。これは文化的な面で、殆どの個体が後天的に身につけてしまったものであり、あたかも先天的にそういった感覚が身についているように見えているだけなのだ。これは由々しき事態である。ヒト本来のものではない感覚を、ヒト本来のものであるかのように思わされているのである。西洋人がアフリカやアメリカの人々に対してあれほど残虐な仕打ちができたのは、彼らが違う人種のヒトを同種の人間と考えていなかったためであるとされる。つまり、アフリカやアメリカの人々を彼らは獣の一種と考えていたのである。逆に言えば、家族でない動物には、残虐な仕打ちをしても許されるという考えで、これでは対称性は銀河の彼方に消え失せていることがわかるだろう。対称性とは、言い換えれば普遍性のことで、命に対する感覚には何ら普遍性がないのである。つまり、生命倫理というものにはロジックがどこにもなく、ただそれに対する忌避感をまるでヒトという種が生得的に持ち合わせているものと貫き通して出来上がった、極めて文明の発展を邪魔立てしているものに他ならない。クローンを作ってはならないというのも、ヒトに対する遺伝子組換えを禁じているのも、恐らくは元をたどればキリスト教的教義にたどり着く。そんな限局的で狭い、偶然昔に天下を取れただけの宗教の言い草で、既に科学革命が起きた後の世界を左右されるのは甚だ馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。こういうことを言っている私も実はキリスト教系の学校を出ているのだが……。カトリックにて、『現代の七つの大罪』なるものが制定されたそうだが、もはや原型をとどめていない。神から与えられた人間の尊厳など虚構に過ぎないもので、虚構を虚構と知りつつ愉しむことは普段アニメやゲームを嗜んでいるように何の問題もないのだが、アニメやゲームの世界が現実であるかのごとく錯乱してしまうと問題になるように、虚構を現実と信じ込んでいるのは傍から見るとただの愚か者である。

いいなと思ったら応援しよう!