①不登校から学び、決めたこと

「どうして人の気持ちがわからないのか。」


なぜなんでしょう。「何を考えているのかわからない」と思うこと、ありますよね。

私たちは子供のころ、「家族」という中で安心してコミュニケーションをとりながら、人との関わり方を学んできているはずですが、最近は家族の人数も少なくなってきたり、核家族化が進んで、子供と兄弟、親や祖父母との関わりも昔に比べると少なくなってきて、コミュニケーションを安心して学べる機会というのがきっと少なくなっているのではないかな、と感じます。

どんな言葉をいうと相手が傷ついたり、自分も言われて辛かったり、この言葉は使うべきではないとか、どうしたら相手が喜んでくれるのかとか、そんなことを安心して学べないまま大人になってしまうと、いざ社会にでて他人とのコミュニケーションでつまづいてしまったりします。

コミュニケーションがうまく取れず、心に傷を負ってしまい、他人との関わりを持つことが嫌になったり、コミュニケーションをとることに対して臆病になってしまったり。でもこれって、自分自身が劣っているわけでも、自分自身に問題があるわけでもない、と私は思うのです。

今、「情報化社会」とも呼ばれる世の中で生きている私たちは、人とコミュニケーションをとらなくても、必要な情報はネットから手に入るし、音楽を聴いたり、YouTubeを見たり、なんだかんだ楽しい時間だって過ごせてしまいます。

私が小学生だったころはまだ携帯電話もスマホもなくて、家に居たってつまらないから、お母さんや友達やおじいちゃんおばあちゃん弟に遊ぼう遊ぼうってよく言っていました。人とかかわることで、時間を過ごしてきていましたが、今は我が子も人と関わることよりも「スマホ」と関わることで時間を多く過ごしているような気がします。

「情報収集機器」の普及は、便利になった反面、コミュニケーションの機会を減らすきっかけでもあったんだろうな。

でも逆に、このすぐに情報が手に入るという現代のおかげで、いままではつながることができなかった人との出会いや、なかなか知ることの容易ではなかった知識などもすぐに手に入るようになり、時代の変化というものには一長一短、こんな短い文章の中では書ききれないほどのいろんな見方があるんだろうなと思います。

ちょっと脱線しかけたので話を戻して、、、今日私が何を言いたかったのかというと、どんなに「人の気持ちがわからない」と思ったり、「コミュニケーションをとるのが苦手」と思ったり「なにを伝えたらいいのかわからない」と思ったりしても、それはそれでよいということ。

自分自身が悪いわけではなくて、今の世の中の流れがそういうコミュニケーション能力が育ちにくい環境を作っているだけだから、自分自身を責めてほしくないということ。

では、コミュニケーション能力を上げるにはどうすればいいのか。

ですよね。ここからが本番。

私の娘は、不登校になり、家族以外の人との接触を嫌がりました。

当時、知識もなかった私は、学校に行ってほしいという思いや、こうであってほしいという理想を娘に押し付けるような対応をしていて、きっと娘の本当の気持ちを理解してあげれていませんでした。

だからそんな私たち親子は不登校という現実を目の前に、いろんな心の壁をお互いに感じ続け、本当によく泣きました。いろいろと受け入れるのに、私はすごく時間がかかり、娘には本当に嫌な思いをさせたなぁと反省してもしても足りません。

でもなんでそんなに受け入れるのに時間がかかったのかというと、それは私自身が一人で4人の子供たちを育てているということと、夜の飲み屋さんで働いているということで、「私が離婚したからだ、私が夜働いて家に居られないからだ、ちゃんと子育てしたいのに子供を不登校にさせてしまって、ちゃんとできてない自分はダメな母親だ」と、そんな思いがすごくすごく胸にあり、「だからせめて学校には行ってほしい」という思いが邪魔をしていたんだといま冷静になって振り返って思います。

あれからもう何年も時は過ぎ、小学3年生で不登校になった娘はもう17歳になりました。「子供が学校に行けなくなったからちゃんと子育てできてない」わけではないのに、あの頃の私には心に余裕もなく、その時の現実や娘の気持ちにちゃんと向き合ってあげることができてなかったんだなぁと思うと、「今」の私であの頃の娘に接してあげたい、そんな気持ちになったりします。

いま、私自身の中で、あのときこうしてあげればよかったなぁとか後悔している気持ちもあるし、いろんな気持ちを抱え続けてきましたが、それをずっと後悔し続けるのではなくて、こうやってそのころのことも振り返りながら、娘にも私の気持ちをこうやっていつでも読めるように形に残しながら、いま私にできることをしていこうと決めました。

まずは、娘に。

あのころ、もっとママの心に余裕があって、もっと向き合ってあげることができてたら、きっともっとたくさん笑顔の毎日を過ごすことができたんだろうなって思う。たくさん泣かせてしまって、母親なのにちゃんと気持ちを理解してあげられなくて、苦しい思いを何年もさせてしまって、本当にごめんね。あのころの小さなRに会って抱きしめて謝りたいけど、でもそれはもうできないから、いまのRとこれからもずっと、一生懸命まっすぐ向き合っていく。ママを不登校の子供の母親にしてくれて、ありがとう。「不登校」に向き合う人たちの辛さや苦しさをわかってあげられる人にしてくれて、ありがとう。一緒に居られる時間をたくさんくれて、ありがとう。

きっと、私たち親子は、この不登校ということに向き合う人生を自分たちで選んで生まれてきたんだと思います。それを通じて、何かを学ぶために、この人生を選んできた。いまはもう学校は終わって「不登校」という言葉からは離れたけど、でもまだ終わってない。

最初に戻って、私は娘の気持ちがわかりませんでした。わからなかったのか、自分の気持ちや理想が前にきて、わかろうとしなかったのか、そんな簡単に説明できないくらいいろんな気持ちが渦巻いていたというのが実際のところでしたが、この経験は私の人生に深く考えるきっかけを与え続けてくれました。

この娘のくれたかけがえのない経験を生かして、私に何ができるのか。

いろいろ考えた結果、こうやって文章を書きながら、行動心理士という資格を学ぶと決めました。また、今持っているISD個性心理学も含めながら、「どうしてなんだろう」と、もし苦しいなと感じている人がいるなら、その気持ちが少しでも軽くなり、前向きになるきっかけになればいいなと思いました。

どうやったら他人とコミュニケーションを上手にとれるようになるのか。

娘はいまでもきっと悩んでると思います。でも、大丈夫。

そのまんまの娘で良くて、自分はダメだと思う必要もなくて、それも個性のひとつとしてみて、自分の良いところなんだと受け止めてほしい。

離れてから不安がる娘に伝えた言葉の一部。

「傷つきやすい性格や、不安になる性格も、それはそれで素敵よ。

感受性の強いRみたいな人は、人の傷みも痛みもわかる人。世の中にもたくさんおるし、ママもどっちかっていうとRに似てるよ。

たくさん不安になるのもRの良さ。やけんその気持ちを大事にしてね。

自分の子供ができたとき、今抱えてるこの不安とかの気持ちは、子供の気持ちをわかってあげられるっていう宝物になるけんね。

自分にたくさん大丈夫!って言ってあげてね。ダメになりそうになってもかまんけん。

辛くなったら、ちゃんと吐き出せる場所をママは作って、こーやってちゃんと受け止めてあげるけん。

そのうち、友達や彼氏ができたら、ママだけじゃなくて他の人もRの気持ちを受け止めてくれるよ。

Rが毎日を楽しいと感じて、幸せと感じて、そんな気持ちでそこにおってくれるとママもうれしいし幸せ。

無理せんでいいけん、優しい暖かい気持ちでそこで楽しい毎日をすごしていってね。

会いにいくし、ちゃんとみんなが自立できるまで支えていくけん、大丈夫よ。」

もし悩んでいる人がいるなら、本当に少しでも、「大丈夫」という気持ちになってもらえたり、ありのままの素敵な自分自身を受け入れるきっかけのひとつになってもらえたら嬉しいです。

私と娘の経験が、少しでも誰かのお役にたちますように(^^*)

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