見出し画像

ワクチン

 私の知り合いに、ワクチン接種をすごく早い時期に済ませてしまった男がいる。
 日本ではひどく接種が遅れている、新型コロナウィルスのワクチンである。
 彼は医療従事者でも何でもない。自営業、小さな会社ながら経営者だ。社長である。そして私の飲み友達でもある。
 こういう話をするのは、たいてい酒を飲んでいる時だ。そして決まって、
「このことは誰にも言わないでくださいよ」
 という類のでもある。

 時節柄、私と彼は昼から酒を飲んでいた。なにしろ夜早くに店は閉まってしまう。酒飲みとは意地汚いもので、厳しい状況に陥れば陥るほど、何とか酒を飲む場所やら方法やらを探し求める。その時は都内の居酒屋では酒も出せなくなってしまっており、私たちはわざわざ隣の県まで飲みに出かけたのだった。
 もっとも、隣の県といってもただ電車に乗っていれば着くのだから楽勝である。
「酒が呑める酒が呑める酒が呑めるぞ」
 と彼は電車の中、ちいさな声で歌っていた。ドアのそばに立ち、流れゆく外の景色を眺めながら。もちろんマスクをして。マスクは当然、不織布マスクである。
「酒が呑める酒が呑める酒が呑めるぞ」
 私も同調した。窓外に見える大きな川は、きっと荒川だ。降りる駅が近付くにつれ、だんだん嬉しくなってくる。

「ほんとうは俺、こんなマスクする必要はないんだ」
 居酒屋の暖簾をくぐり、検温、消毒を経て席に案内されると彼はいった。不織布マスクを取り外す。
「ん? というと?」
 私もマスクを外した。発熱はしていないし咳も出てはいない。すると、
「ワクチン、打っちゃったんだよ。もう二回めも済んだ」
 彼はさらりと、衝撃の告白をしたのである。
「はあ?」
 私はちょっぴり驚いた。その頃は、ワクチン接種を受けられるのは、医療従事者か後期高齢者に限られていた。しかしいつの時代にも、どの地域に行ってもズルをする輩はいる。世の中そんなもんだと思っていた。しかし、まさかこれほど身近に、こんなズルをする奴がいるとは思ってもみなかった。
 通されたのは個室だった。慌てて区切りを増設して後から無理矢理にこしらえた感じの個室である。幸い客は私たちだけのようだった。両隣の個室に人がいる気配はない。私たちはオーダーをとりに来た若い女性従業員に生ビールのジョッキを注文した。彼女はウレタンマスクだった。この店ではそれほど感染対策が徹底されていないようだ。私たちはさらに枝豆などのつまみを数点注文した。品物が揃うまで、会話は控えた。

 まずは生ビールのジョッキで乾杯した。一気に三分の一ほどを飲み干す。ビールは冷えていた。とてもよく冷えていた。
「ああ」
「旨い」
 ジョッキをテーブルに置くと、思わずシンクロして声が出た。
「ところで」私は彼の顔を見た。「どういうこと?」
「それがさ」彼は身を乗り出した。「このことは、誰にもいわないでくれよ」
「いわないよ」
 私は心にもない返事をする。本当にいって欲しくなければ話さなければいいのだ。打ち明けるということは心のどこかでは誰かにいって欲しいのである。話を広げて欲しいのだ。
 彼の告白によると、何のことはない、コネのおかげだった。医者の知り合いがいるのだという。彼の近所の開業医で、PTAの会合で知り合い、やがて酒を酌み交わすような仲になったということだった。
「俺さあ、ほらPTA会長だから」
 酒でほんのり赤く顔を染めた彼がちょっと得意げにいった。この男は昔から面倒見だけはいいのだ。それでそういう活動にも手を染めているのだろうと予想はつく。ある日の会合の後、分科会と称してその医者と酒を飲んでいるうちにそういう話の流れになっただという。
「医療関係者ということにしとくからさあ、会長、うちの病院でワクチン打っちゃってくださいよ。その方があとあと何かと安心じゃないですか」
 と医師の方から誘ってきた。会長とは彼のこと。PTA会長の「会長」だ。
「ふーん、それはラッキーだったなあ」
 私は特にうらやましいとも思わなかったが一応そのように感想を述べておいた。「そういうことって、いっぱいあるんだろうな、この国では」
「蘇我入鹿、藤原道長、平清盛、源頼朝、北条なにがし」
 不意に彼が呟いた。「昔から日本人って、みんなコネとか縁故を使って繁栄してきたんだよなあ」
 彼の口から歴史上の人物の名がずらずらと出てきたので私は再びちょっぴり驚いた。というか感動もした。
「伝統芸というかなあ」
「いまの政権もそうだよな」
「そうだな。間違いない」
「くそ真面目にやってる奴だけがバカをみる。いやな国だ」
 自分は抜け駆けしておいてよくいうよと思ったが、「でもそういう奴等の繁栄って長くは続かなかったじゃん」と私は指摘しておいた。
「驕る平家は久しからず、か」
「そうだな。そうなるといいんだけど」
 彼はジョッキに残っていたビールを飲み干すと、新たな一杯を注文するため、テーブルに置かれた呼び出し用装置のスイッチの頭をぽんと叩いた。

(了)

いいなと思ったら応援しよう!