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100歳のおばあちゃんが死んだ──秋月圓を立ち上げる

いよいよかもしれない、という連絡が母から入ったのは祖母が死ぬ3日前だった。2週間前に大腿骨を骨折して入院した祖母はその日、急に意識がなくなったようである。父と母、親戚たちはすぐに病院へ駆けつけたが、ぼくは行かなかった。月末に刊行予定の『夏葉社日記』の校了中(締め切り)だったからだ。

1999年9月9日、83歳で祖父が死んだ。吉か凶か、その日は朝鮮民主主義人民共和国の建国記念日だった。それから約20年、祖母は3階建て、9LDKの豪邸にひとりで住んだ。しかし数年前、何かがあっては手遅れになるという伯父や伯母の判断で老人ホームに入ることになる。祖母はすでに95歳を超えていた。コロナ禍で制限があったこともあり、ぼくはこの間、一度も会いに行くことはなかった。
そのころの祖母は、父(息子)のことは辛うじて認識していたようだが、母(息子の妻)のことを見て「どこのお嬢さんかしら?」というほどボケていた。ぼくが面会しなかったのはこれ以上、彼女の記憶に混乱を招きたくないと思ってのことだった。彼女には息子が4人いて、それぞれの妻、そして孫まで来たら、パンクしてしまうだろう。それがぼくにできる最大限の配慮であった。もしかしたら、大好きなおばあちゃんが弱っている姿を見たくなかっただけなのかもしれない。面会に行った父が撮った写真にうつる──髪は真っ白となり少女のように屈託なく笑う──彼女を見て、ぼくが知っている祖母でないことがショックだった。

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祖母の家の3階には、年季の入ったシンガーのミシンが置かれる作業部屋がある。そのミシンは戦時中、疎開先へと背負って運んだというほど大切にしているものだ。これは自分が生まれる前につくられたものだ、と自慢げに語ることもあった。それはほとんど祖母の命といってもいいだろう。幼少期からなんの取り柄もなかった祖母が、唯一褒められたのが縫い物だったそうだ。
ミシンのそばには、「Made in Italy」や「Made in England」と記されたシルクやウール、キャメルの生地の切れ端が乱雑に置かれ、部屋の奥には祖母の背丈よりも高い、くるくるのパーマをかけたような細くて長い葉っぱをした観葉植物が日光を浴びながら鎮座し、部屋へ入る者をつねに見張っていた。
その部屋は扉を挟んで屋上へと繋がっている。プラスチック製の薄いドアをひらくと、いろいろな種類の植木や花、草、それにヘンな石像(祖父が掘ったらしい)が置かれていた。とくに統一感などなく、ただ好きなように植えたのであろう。タンポポやアネモネ、薔薇や牡丹、紫陽花に向日葵、そしてハイビスカスのような南国の花やサボテンが楽しそうに並んでいた。
小学校にあがる前から、ぼくは祖母の家へ行くたびに「屋上に行ってくる!」といって、その庭で遊んだ。そんなに頻繁に屋上へ出入りするような孫はいなかったのだろう。見込みがあると思われたのか、祖母に「好きなサボテンのをひとつ選んでいい」といわれ、その子どもをもらう。その子が植物とのはじめての出会いだった。
家に帰るとすぐに小さな鉢に土を敷き詰め植えてみた。水はやらなくてもいいといわれたが、日当たりのいいベランダに置き、毎日かかさず水をやり、VIP待遇でもてなした。成長は思いのほか早く、どんどん大きくなっていくサボテンに釘付けだった。立派に成長すると、夏には新たな茎が伸びてきて真っ白な花を咲かせることもあった。サボテンが花をつけることを知らなかったぼくは、それから植物の虜になる。祖母と会うたびにサボテンがいまどうしているかを報告した。祖母とはそれ以来、友だちになったような気がする。


祖母の家のリビングには大きなテーブルがあり、そこにはいつも漢字練習帳が置いてあった。小学一年生用のテキストである。祖母は物心がつく前に、朝鮮半島の東南部(慶尚キョンサン北道ブクト)から親とともに日本へ渡ってきたが、日本の小学校に通うも馴染めず、すぐにやめることになる。それから学校へは通っていない。そんな祖母は勉強熱心で、いつも漢字の練習をしていた。
「毎朝起きて、ひとつの漢字を一所懸命に書くんだよ。でもね、つぎの日には忘れちまうんだ。だから1ページも進まないんだよ」
そういいながら、彼女は何年も漢字の書き取りの練習をおこなっていたのだ。ぼくは大学まで出ているが、あなたほどに勉強をしてこなかったということを本人には伝えられなかった。
あるときには「最近は新聞を読んでいるんだ」と恥ずかしそうに話していた。手渡されたのは聖教新聞だった。「駅前に行くと、これが売っていて、ほかの新聞よりも安いんだ」という。彼女が朝日や読売、毎日、日経ではなく、聖教新聞を読んでいるところにグッと来るものがあった。ぼくが「すごいね、ハンメ(おばあちゃん)は新聞を読むんだね」というと、「全然わからないけどね」と微笑んでいた。

彼女は他人の力を借りるのを極端に嫌う、根性の入った女だ。老人ホームに入ってから、一度だけ自宅に戻れる日があった。それは彼女の念願であった。ただその家は1階がお店で、2階に居間がある。2階へ上がるには、老人には酷なほど長い階段が待ち構えている。途中に踊り場があるほどだ。足も膝も腰も完全にイカレてしまっている祖母は杖をつき腰を曲げ、「いうことを聞け!」というように膝をさすり足を引きずりながら、その階段を一歩ずつ登った。登り切るころには、ほとんど這っていたといってもいい。付き添った父が手を貸そうとすると、「やめろ!」と大きな声で訴える。どんな格好であろうと、自分の力で登り切る。彼女はそういうふうにして生きてきたのだろう。

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祖母が死ぬ1日前のことだ。ぼくは『夏葉社日記』の校了作業に気が狂いそうになっていた。気分転換のために外へ出て戻ると、このあたりでは見かけない白猫が家の玄関の前にきれいな姿勢で立っている。その猫と目を合わせると、不思議なことにぼくを待っていたことがわかる。すぐに察した。孫のなかで、いちばん関係の深かったぼくに祖母が挨拶に来たのだ。ぼくは都合よく、その猫がおばあちゃんであると信じた。その猫はところどころに模様があって、その佇まいも含めて妙に美しい。猫ははじめに見た姿勢から微動だにしなかった。ぼくは校了の疲れでヤケを起こしたのか、その場で猫に向かって土下座をした。ほかの住人や通りかかった人が見たら、不審がっただろう。だけど、まわりには誰ひとり存在しなかった。あるいは、ぼくが入り込んでいたせいで、まわりが見えなかっただけなのかもしれない。完全にぼくとおばあちゃん(猫)の空間だった。頭を地面にまで下げながら、「お世話になりました。ほんとうにありがとうございます。あなたのことが好きです。愛しています」、そう声に出した。そのまま顔を上げ、真っ直ぐに猫の目を見つめると猫は気が済んだのか、いまになって人間が来たとばかりに突然びっくりしたようなリアクションを取り、慌てて反対側の出口へと駆けていった。ぼくはやれやれと立ち上がり、両膝についた砂を払った。
これがおばあちゃんとの最期の面会である。これはぼくにとって葬式でもあった。むかしからぼくは、身内であろうと葬式には出なくていいと考えている。結局、自分と故人との関係性の問題だろう。葬式に出なかろうが、喪に服すことはできる。ぼくにはおばあちゃんとの思い出があり、彼女との信頼関係がある。何年か前には「全然お迎えが来なくて困っちゃうんだよね」という90歳を超えた祖母に「そうだよね、はやく死にたいよね。困ったもんだね」と話したことさえある。

『夏葉社日記』を刊行する直前、出版社の名前を決めなくてはならなかったが、ピンと来るものはなかった。そんななか、祖母が70年前に高円寺こうえんじ(東京都杉並区)で営んでいた中華料理屋のことを思い出す。それは当時、祖父が肺炎に罹り、もう治らないと医師に告げられたときに祖母が切り盛りしたお店であった。はじめてテレビが一般に普及したころのことだ。「秋月圓しゅうげつえん」にはいち早くテレビが導入され、繁盛したようだ。厨房の人間が意地悪でアツアツのラーメンを「熱くて持てないだろう」とばかりに渡すのを、「なにくそ!」と平然とした顔でお客様へ届けたもんだ、とホールを担当した祖母から聞いたことがある。よし、これだ。尊敬する祖母のように、自分のできることは自分でやる。根性を決める。そんな仕事をしよう。そのときに、ぼくは「秋月圓」を何十年ぶりに継ぐことを決意する。それは晩年の祖母に頑なに会いに行かなかったことに対する懺悔でもあった。勝手ながら「秋月圓」を継ぐことにする。

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