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一服/夏葉社日記(番外編)

夏葉社で働くことが決まったときから夢見ていたことがある。それは憧れの編集者である島田潤一郎さんの本づくりを学べることでも、彼と昼食をともにすることでもなかった。ただ、島田さんといっしょに煙草を吸ってみたかった。
2021年2月4日、夏葉社初出勤日。茶色に白のピンストライプのジャケットを慌てて羽織りキャメルのコートを持って、家を飛び出した。「始業に間に合わないかもしれない」、ギリギリだった。最寄駅に向かう途中からそんな悪夢は想像したくない。しかし夜型人間に午前10時集合というのは酷であった。はじめての出社日というのはやる気を見せるチャンスでもある。初日くらい早めに着いたほうがいいことは知っている。だけど、ぼくにはこれでいっぱいだった。電車に乗り間違えることはなかったが、道のりは遠い。JR吉祥寺駅から徒歩15分。ほかの人よりも足の速さには自信があった。だらしなさを気合と体力でカバーするのだ。お笑い芸人の蛙亭・イワクラ氏が「お偉いさんとの会合にも遅刻したから、人を選んでいないことは評価してほしい」といっていたことを思い出す。
脇目もふらず商店街を駆け抜け、夏葉社を目指した。事務所の前に着いたときには目の前が一瞬白くなりクラッときた。真冬だというのに汗だくで、呼吸が荒い。心臓の脈打つ音がドクドクと聞こえてきて、それは町中に響き渡っていただろう。左腕につけた時計は「9:55」をさしている。間に合った。ビジネスバッグから綾鷹のペットボトルを取り出して一口飲み、落ち着きを取り戻そうと必死に頭のなかを整理する。あたかも気を利かせて極端に早く着かないよう5分前に設定しましたとばかりの顔面を用意して、会社の扉を開けた。
「おはようございます!」
ウォームアップは完了していた。からだは十分にあたたまっており、腹の底から声が出る。島田さんはびっくりしたかもしれない。だけど挨拶は大きいほうがいい。ぼくの人生で学んだことのひとつだ。代表はほんの少しだけ緊張しているようにも見えたが、「おはようございます」と微笑んでくれる。わざわざ席を立って手を挙げてくれるのも嬉しい。笑顔もかわいい。こちらも自然とニコニコしてしまう。
「まあまあ、ゆっくりしてくださいよ」
どこか地方の奥座敷に遊びにきた観光客に語りかけるようだった。女将はコートを預かり、カバンを持ってくれたような気さえした。事務所の奥まで歩きながら、ぼくのために用意してくれた机を見て驚き、上着を脱いで椅子にかけた。深く呼吸をする。いまだに島田さんの視線は冬の太陽のようにあたたかい。
「調子はどうですか?」
「えー、まあまあです。緊張しています」
「緊張しなくていいですよ。秋くんは煙草を吸いますよね。よかったら、裏で一服してくださいよ」
島田さんが指さした、デスクの裏手にあるキッチンスペースには小さな円柱形の灰皿が置いてあり、喫煙時には換気扇のスイッチをいちばん右の「強」にすることを教わる。ぼくは迷わず、煙草を吸うことを選んだ。緊張でどうにかなってしまいそうだったからだ。まさか始業してすぐに煙草を吸うことになろうとは思わなかった。仕事前の一服は格別だ。さてやるぞ、と気力がみなぎってくる。そのころは島田さんも煙草を吸っていた。それぞれがそそくさと裏にまわり吸い終えると、何事もなかったかのように席へと戻った。どうやら島田さんは禁煙をするようだ。「煙草は好きなんです。だから70歳になったらまた吸おうと思います」。またひとり仲間が去っていくことをひそかに悲しんだ。
昼休みが終わるころ、島田さんはおもむろに席を立つ。換気扇のボタンをカチンと押す音が聞こえる。これはチャンスだ、今しかない。いや、もう少し待とう。ほんの何秒が数分にも感じられた。そしてぼくも席を立ち「おれも吸っていいっすか?」と、狭い「喫煙所」に強引に突入した。枠からは少しはみ出ていたけど、憧れの人の横に立ち、ポケットから煙草の箱とライターを取り出すことに成功する。島田さんは黒基調に緑色が見えるパッケージのメンソール、ぼくは白と黒のセブンスター。運命の一本を親指と人差し指でつかんで口元へ運び、火を近づけた。島田さんのとなりで煙草を吸っている。その瞬間、社長とアルバイトの関係ではなくなる。妙な仲間意識が生まれる。それはおなじ目標を追いかける者同士の連帯感というものではない。煙草を吸うという行為はおなじでも、それぞれが自分の世界と向き合う。べつのことをやっているけど、おなじことをしている。
 島田さんはそれからすぐに禁煙した。ぼくはあいかわらず出社してすぐに煙草を吸った。任された仕事に行き詰まると裏へと駆け込んだ。迷惑なんじゃないかとも考えたが、「煙草の匂いは好きなんです」と噓か本当かわからない島田さんのことばを盾にして、ぼくは吸いつづけた。あれ以来、一度も煙草を吸わない島田さんは「もう吸いたいとも思わないですよ」という。あのときの感覚を忘れられないぼくは、またいっしょに吸えることを夢見ている。


2024年11月24日

2024年4月1日、秋月圓という版元を立ち上げ、『夏葉社日記』を刊行しました。よろしければ、以下を読んで、取扱いのあるお近くの本屋さんで手に取ってみてください。

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