難聴エッセイ | 聴こえにくいわたし、聴こえる息子
わたし、生まれつきの中等度難聴で、耳が聴こえにくい。
息子、0歳10か月。新生児聴覚スクリーニング検査はパス、今のところわたしの難聴を受け継いだ様子はなさそうだ。
そんな息子を見ていて思ったこと。
家の中で遊んでいても、抱っこ紐で外を散歩していても、聴覚が(視覚も)フル回転している感じがする。
カーテンをシュッと開けるとこちらを見る。
夫が帰宅し鍵をガチャリと開けると、玄関のほうを見る。
お風呂が沸いたメロディが流れるとニコッとしてわたしを見る。
カラスがカァーと鳴くとそちらを見、遠くで電車が通るとそちらを見。
思うに、今息子は、
音とその意味の関連づけを学んでいる真っ只中なのではなかろうか。
だから、小さな音にも大きな音にも、初めて聴く音にも、毎日聴いている音にも毎回、おなじように反応する。
そして、それはこのさき、オート選択できるようになっていくのだろう。
こんなこともあった。
息子がおもちゃAをポイして、おもちゃBのほうへ行ったので、わたしはAを片付けようと手に取ると、かすかな音がしたのか、息子はパッとこちらを振り向いた。
大人はそんな音にいちいち反応するだろうか?
見なくても、音で何が起こったか大体わかるようになるだろうし。
聴覚としては聴こえていても、「その音の正体はわかったから、もう反応しなくていいよ〜」って学習がなされて、聴覚司令塔の独断で脳まで伝える必要はないと判断されるかもしれない。
(難聴であるわたしの聴覚は、そういう学習のしかたをしてきていない実感がある)
ほかにも、大人はスルーするだろう音に、息子はいつも初めて聴くような真っ白な反応をする。
息子が今、世界のすべてに興味しんしんで、すべてのことにおなじように感覚を開いているのは、今だけの姿なのかもしれない。
世の中は情報に溢れすぎているから、聴覚司令塔がいないとしんどくなっていくのかもしれないけれど、
もしもシンプルにできるんだったら、すべての音をおなじように受け止めて、ひとつひとつに思いを馳せることができるだろうか。
静かなひとりの山登りのように。
息子が聴こえる音のどのくらいを、わたしも聴こえているのかはわからないけれど、
息子の感性をおすそわけしてもらうように
息子の目線を追いかける日々です。
中等度難聴に生まれてなんやかやをエッセイにしています。
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