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むかしばなし1

「僕、全知全能になりたかったんですよ。」
「全知全能って?」
「え、漢字わかりますよね。」
「うん、貴方が思う全知全能ってどういうものなのかと思って。」
「ああ、僕が思う全知全能はなんでも答えることができる能力です。単語と意味が対になっているもの。だから、心は、とか精神は、とかには答えられないんですけど。例えば机は、とかなぜ太陽が西に沈むのか、とかは答えれます。」


後半になるにつれて彼の声が遠ざかっていくと同時に、私の頭の中ではぐるぐると考えが巡り没入してしまったことに気がついた。
そうか、パースの記号論でいう解釈項の影響が大きいものではなく、ソシュールの記号学のような二項関係のようなものを取り扱う全知全能か。

「だから僕、ウィキペディアを読むの好きです。ウィキペディアみたいな人になりたかった。」
「大学で一番仲のいい友達は、高校の時宗教に関するウィキペディアを読み漁ってたって言ってたよ。」
「そうそう。そう言う感じ。」

彼と彼女の意外な共通点に私は笑った。
いや、意外ではないかもしれない。2人は少し似ているところが無きにしも非ずだ。
また自分の思考に没入しかけていることに気がついた。
彼が立ち上がって向こうの部屋へ歩き出した。
その動きをゆっくりと目で追った。

「宗教ってゾロアスター教とか?」
「ゾロアスター教って鳥のやつだっけ。埋葬方法。」
「ゾロアスター教は火の宗教ですよ。」
「あれ?鳥で埋葬する宗教じゃなかったっけ。」
「鳥葬?そうでしたっけ。でも祀っている神様は火の神様だよ。」

ゾロアスター教が鳥葬を行うことは酷く鮮明に覚えている。
高校一年生の世界史の授業。
先生が黒板にチョークで雑に描いた鳥葬の絵は、全くグロテスクでもなければリアリティーも無いのに、妙に気味悪さがあった。
鳥に遺体を食べさせる。合理的なのかもしれない。
生態系は回っている。動物も、植物も、土に還って再び生命となる。
あの世界史の先生、40手前なのに彼女が途切れなかったらしい。
「僕、今年初めて彼女のいない誕生日を迎えるんです。」
彼は塩対応なその態度と年相応でないルックスで、女が途切れない理由は明瞭だった。
ガラケーを使っていて、その写真フォルダにはたったの3枚しかデータがなかった。
どんな写真なんだろうか。
20年近く色々な学校を巡ってきた彼、30年近く恋人がいる彼、40年も生きてきた彼が保存しているたった3枚の写真が映すものは何なのだろうか。

「でも、全知全能にはなれないんだって。」
「どうして?」
「銭湯で出会ったおじちゃんが言ってた。」
その瞬間、私は思わず吹き出してしまった。
「笑いすぎですよ。」


旧約聖書では、7日間、厳密に言うと6日間で世界を創りあげた神を「全知全能の神」という。
私にとっての全知全能とは、彼の思う全知全能よりももっと卓越した高尚なイメージがあった。
そんな全知全能を目指していた彼が銭湯で出会った、おそらく全裸の見知らぬおじさんに諭されて全知全能を諦める、というそのアンバランスさが面白かった。

彼は私よりも6歳年上だった。
6歳の差を感じさせないほどの出で立ちだった。
年上どころか、どこか弟のような瞬間もあった。
公務員を辞めて、繁華街の中にひっそりと佇む深夜喫茶の店員をしている。
そこの喫茶店で彼と出会った。
夜の繁華街は煩かった。いつも汚くて臭い。
頭の悪そうな女と男が肌と肌をべったりとくっつけて、知り合いの性器の話や、誰と誰が性交渉したかについての話に夢中だった。
私は女にしては身長が高い方である。
だから精神的にも物理的にも、彼らを見下して足早に歩くのが常だった。

喫茶店は静かだった。
本を取り出して夢中で読んだ。
気がついたら2時間半も時間が経っていた。
客層に若干の変化があった。
クラブで疲れた人たちがここへ集うらしい。
ふと顔をあげると、見るからに煩そうな人たちがちらほらいた。
煙草を吸おうと思い、喫煙スペースへ行った。
店内は静かで落ち着いた内装であるのにも関わらず、喫煙スペースはピンク色の照明でなんだかいかがわしいことをするような雰囲気があった。
しばらくして灰皿の交換をしに店員がやってきた。

「どうしてこんなにピンク色なんですか?店内とミスマッチな感じがして面白いなと思いました。」

彼は一瞬、目を少し見開いた。
一呼吸おいて口を開いた。

「普段はこっちの白い方を使っているんです。でも、気分でこっちのピンクを使います。白のほうがいいですかね。」

私と彼の煙草の銘柄が偶然にも同じ銘柄だった。

「どうしてキャスターを吸っているんですか?」
「あるアーティストの影響で吸っています。」
「どなたですか?」
「志磨遼平ってご存知ですか?」
「ああ、マリーズとかドレスコーズの。」

現実で志磨遼平を知っている人がいるなんて…!
私はひどく驚いた。
それと同時に、彼も驚嘆していたらしい。

「志磨遼平を崇拝している女子大生がこの世にいるなんて…。その事実に驚いています。僕。」

思い返すと、彼は思ったこと、とりわけポジティブなことを恥ずかしげもなく真っ直ぐに伝える人だと思う。
けれども彼は根っからのネガティブだ。
ネガティブというか鬱病であるから仕方がない。

「それにしても、志磨遼平、彼は罪な男ですね。未来ある若者に煙草なんて影響を与えて。」

彼の言う通り、志磨遼平は罪な男だと思う。
私は彼の影響で煙草を吸い始めたと言っても過言ではない。
彼は私を救ってくれる。
その反面、私は彼を恋焦がれることしかできない。
彼には届かない。

「僕、覚えていますよ。中学生の頃だっけな。毛皮のマリーズが解散するってラジオで聞いたのをよく覚えています。」

私は再びひっくり返るほど驚いた。
毛皮のマリーズの歴史的瞬間を見届けた人がいるだなんて…!
何度も何度も羨ましいと繰り返す私に、彼は
「あの時の記憶を思い出させてくれてありがとうございます。」
とだけ言った。

喫茶店に行って、紅茶のストレートを注文する。
本を1、2時間没頭して読む。
飽きたら喫煙スペースでキャスターを吸う。
時々、彼が私の席に置いてある伝票を通りざまに一瞬触る。
煙草を吸いながら話そう、という暗黙の合図である。

彼との会話は他愛もない話ばかりだが、とりわけ私は彼の昔話が大好きだった。
大学の話、公務員時代の話、元恋人の話、喫茶店での話。
私はずっと彼の昔話を聞いていたかった。
時々、ドラムの動画を見せてくれた。
彼は社会人の傍ら、大学時代からずっとドラムを叩いている。
音楽を流せば、リズムに乗って拍をとる。
その拍の取り方があまりにも常人離れしていて、彼が自分の太ももを手で打つのを見るのも好きだった。

私が大学で一番仲の良い子と彼の共通点は、音楽に関して厳しいところだと思う。
彼女もギターやバイオリン、ピアノを弾く。
そしてセンスの良くない(らしい)音楽を聴いている人を馬鹿にする。
私は音楽に疎い。その人が好きな音楽を聞けば良いと思っている。
センスの良し悪しも全く分からない。
先日、彼女の前で銀杏BOYZを歌ったら、
「私の前で銀杏歌うの禁止。嫌い。」
と言われてしまった。

彼が流してくれた音楽を、私はしばらく忘れないだろう。
公務員時代に壊れた心を修復しているかのように、彼の周りは時間がゆっくりと流れていた。
その悠長さが彼の好きな音楽と重なって、どうも私を拘束するようだ。
自ら捕まりに行っているのかもしれない。
それは私の小さな思い出である。
忘れられない小さな思い出である。





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