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梅崎春生「オリンピックより魚の誘致」『怠惰の美徳』:感想―「つまりは日本近海を魚族のパラダイスにするのである。」


戦後派を代表する文人、梅崎春生のエッセイ『怠惰の美徳』が面白い。

どこが面白いかというと、徹頭徹尾やる気がない言説なのに、妙に説得力があるところが面白い。

大学にはほとんど出席せず、志望した新聞社は全滅。やむなく勤めた市役所で毎日ぼんやり過ごして給料を得る。一日十二時間は眠りたい。できればずっと布団にいたい・・・。(文庫本裏表紙より)


ああ、よーくわかる。私は「何も考えずにスマホをいじって、情報をナナメ読みする時間」は、かならず欲しいと思ってしまう。どれほど忙しくても、睡眠時間を削ってでも、少しはダラダラする時間を作りたい。


私はどちらかというと、仕事がさし迫ってくると怠け出す傾向がある。仕事の暇な時には割によく働いて、寝床にもぐり込んでばかりいず、セミ取りに出かけたり、街に出かけたりする。これは当然の話で、仕事があればこそ怠けるということが成立するのであって、仕事がないのに怠けるということなんかあり得ない。すなわち仕事が私を怠けさせるのだ。

とまぁ、こんな調子で、作者の「怠惰の美徳」が語られている。

思わず笑ってしまいそうになるが、どれも身に覚えのあることだ。

「仕事が私を怠けさせるのだ」という言葉は、「いつか使ってみたい言葉リスト」に入れておいた。


「オリンピックより魚の誘致」


さて、いくつかの短いエッセイのうち、この題名に目がいった。

「オリンピックより魚の誘致」。

なんだか今日性のあるテーマだ。

本文を読むと、こう書いてある。


昔は海に魚がうようよいて(今でもいることはいるが)ちょいと岸から、あるいは舟をこぎ出せば、いくらでも取れた。(中略)戦中戦後になって、この事情が一変した。


日本でとれる魚が昔(戦前)より減ったのだという。

これについては思い当たる節が一つだけある。祖父の遺品を整理していて発見した、祖父の幼少期の日記帖には、「ウナギ取り」について熱心に書かれていた。戦時中も、毎日毎日近所の川に行ってはワナを仕掛けるなど、楽しみにしていたらしい。そして、結構な頻度で、天然ウナギがかかっていたようなのだ。

その川は、今も綺麗であるが、ウナギが取れるなんて話は聞かない。不思議だなぁと思っていた。


さらに続きを読み進め、この短いエッセイをさらに短くまとめると、

「オリンピックなどやるより、養殖した魚を放流し、様々な魚を日本近海に誘致し、住みつかせよ」

ということをおっしゃっているのだった。


つまりは日本近海を魚族のパラダイスにするのである。


すっとぼけたような味わいのある文章と、海の生き物たちが「パラダイス」を満喫する、メルヘンチックなイメージがまざりあう。

肩の力が抜けたおじさんの、独り言のようなこのエッセイが、オリンピックがさけぶ「平和」をゆうに超えてしまうようだ。


・・・・

しかたがない、という日本語は、翻訳するのが大変らしいと聞く。

「自分の力ではどうすることもできないからこの問題が未解決でもかまわない」、そんな感情を説明するのが難しいそうだ。

ご時世や、それによっておきるトラブルに対して、私は「仕方ない」と何度も自分に言い聞かせてきた。しかし、このように社会に強い風が吹く時代に対して、何の抗議も表明せず、楽しむことをただ控える。その姿勢をいつか振り返ってみたとき、どんなに情けない気持ちになるだろうかと、最近思う。

石垣りん「雪崩のとき」という詩が、まさにその感情の危うさを指摘している。

降り積った雪の下には 
もうちいさく 野心や、いつわりや
欲望の芽がかくされていて
「すべてがそうなってきたのだから仕方がない」というひとつの言葉が
遠い嶺のあたりでころげ出すと
もう他の雪をさそって
しかたがない、しかたがない
しかたがない
と、落ちてくる。
ああ あの雪崩
あの言葉の
だんだん勢いづき
次第に拡がってくるのが
それが近づいてくるのが
私にはきこえる
私にはきこえる。
(1951・1)


この詩はおそらく戦争を比喩しているが、これに似た危機感を、私もひしひしと感じる。

梅崎春生がえがく、「魚族のパラダイス」の図が、決してばかにされるような事態があってはいけない。表面上は和やかで、笑ってしまうくらい間抜けなものであっても、「しかたない」の波から脱しようとしているものだとすれば、それだけで十分な値打ちがあるのだ。




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