耳のない犬、ポチのこと
webライターのなつめももこです。私の日常、過去のこと、考えていることをゆるゆると綴っています。
今日ものんびりと、どうぞ。
ポチのこと
犬の話をしようと思う。
犬、それはポチのことだ。
ポチとは私が10代でまだ実家にいた頃に飼っていた犬のこと。
茶色くて、しっぽがふわふわしていて、お目目がくりんくりんの、かわいいこちゃんだ。
誰でも自分がかわいがっているワンコは世界一かわいいものだろう。私にとってのポチもそうだった。かわいいんだ、ポチは。
ポチには、耳がなかった。
耳がないおかげでまんまるの頭をしていて余計にかわいさが際立っていた。
生まれつき耳がないポチはどうやら音が聞こえないようだった。
私が後ろからそっと近づいて驚かすと「ぎゃふん!」とびっくりぎょうてんギャグマンガのように床に転げていたものだ。
私が、ポチを守る
「これは危ない」
耳が聞こえないということは危険を察知する力も弱いということだ。後ろから車が来たって、倒木があったって分からないんだから。
私が、守ってあげなくてはいけない。
かわいいポチのために私はいっしょうけんめいになった。
私たちのお散歩は車と歩行者がすれすれをすれ違う狭い道を通らなければならなかった。
車が後ろから近づくたびに、私は「よいしょ」とポチを抱っこして持ち上げた。すぐに車を避けられないポチはうっかり事故にあってしまうかもしれないからだ。
おとなしく抱っこされているポチ。
とてもいとおしいワンコだ。
ある日父親と一緒にポチの散歩に出かけた時のこと。いつものように私がポチを抱き上げると父が驚いた。
なんでポチを抱っこするのかと、私は父に聞かれた。
なんで、ってそりゃポチのためだ。
事故にあってはたまらない。
だって、ポチは耳が聞こえないから。車に気づかずに飛び出しちゃうかも知れない。危ないでしょう?
父は「ポチのため?」と私にもう一度疑問を投げかけたけれど、それ以上は何も言わなかった。
ポチは、自分で、できる
それからまたしばらくして、今度は幼い妹と一緒にポチの散歩へ出かけた。
私はポチのリードを妹に託した。
私だってポチのリードを持ちたいけれど、妹だってポチが大好きなのだから。
いつものように、車が後方からやってくる。
ポチを抱き上げようと私が手を出したと同時に、妹がポチのリードを「つんつん…」と引っ張った。
ポチはその合図で道の端に寄り、じっとした。
私は衝撃的なものを見たような気分になった。
車は私たちの横を通り去っていく。
ポチは、静かに道の端に座っている。
「ポチのため?」
父の声が聞こえてきた気がした。
私がしていたことはポチのためじゃなかった。
「ポチがかわいそう」そんな風に思う自分の自己満足だったんだ…。
私は、ポチが一人でできることも取り上げて、自分の満足感を満たしていたことが恥ずかしくなった。
その日以降、車が来たら私もリードを「つんつん…」と引っ張ってポチに「危ないよ」のサインを送ることにした。
ポチはちゃんと、避ける。
自分で判断して道の端に寄ることができる。
助けることと、奪うこと
ポチは何も言わない。
犬だから。
でもしゃべることができたなら抱っこする私に「いいよ、できるから、自分でできるからさ」と言ったかも知れない。
もしかしたら甘えて「抱っこで守ってくれて楽ちん楽ちん」と言ったかも知れない。
自分でできるから、と言われたならいいだろう。
けれど、「楽ちん楽ちん」なんて言われたらその後のポチの人生はどうなることやら。
できないことだらけになってしまうではないか。
相手を思いやることは大切だ。
誰だって、助け合って生きている。
でも、相手を助けているようで実は自由を奪っていることだってある。
かえって窮屈な生き方にさせてしまうこともある。
合図さえすれば自分で車を避けることができるポチ。
小さな後ろ姿から私は大切なことを学んだ。
ポチはもう、この世にいない。
最後の最後まで、しっぽを振り続けて息をひきとった。
ポチにとって、私はいい人間だっただろうか?
大人になった今も、私は道路の端に寄るポチの姿を忘れられないでいる。
ポチがいなければ気づけなかった大切なことを、ここに綴る。
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