じいちゃん
母方のじいちゃんは優しかった。
共働きで忙しい両親は夏休みや冬休みなどの長期休みの時は必ず母方の祖父母の家へ私と兄を預けていた。
ばあちゃんはまだまだ現役で働いていて、じいちゃんと兄と私の3人で畑行ったり川遊びしたりして過ごしていた。
こう書くと楽しい思い出に思えるけど、実際はほんとにつまらなかった。
田舎だから遊びに行くとこもないし、テレビもあんまりチャンネルが無い。
友達も居ないから遊び相手はずっと兄かじいちゃん。
中学生に上がるまでは夏休みも冬休みもそんなに好きじゃなかった。
じいちゃんは私達が退屈しないよう山や畑に連れてってくれたし、アニメが放送されてる時は必ず教えてくれたりしてくれた。
高齢だったからしんどかっただろうけど、怒られたこともあんまりなかった。
優しいじいちゃんだった。
じいちゃんが体調崩したのは私が大学に上がる頃だった。
次第に歩けなくなって、立つこともできなくなっていって、優しいじいちゃんは次第にイライラして八つ当たりしてくるようになった。
ヘルパーさんにも「他人がいると落ち着かない」と拒否した。
ばあちゃんも老老介護では倒れてしまうと無理やりヘルパーさんに来てもらい、なんとかかんとか生活していた。
じいちゃんはあれよあれよと弱っていき、最後はもうベッドから出られなくなっていた。
大学2年生の時に会いに行ったら、骸骨のように細くなったじいちゃんがベッドに居た。
じいちゃんは私に「ちゃんと飯食えよ〜」って昔のように優しく声をかけてきた。
あんなにばあちゃんやヘルパーさんに当たってたのに、私には前のまま優しいのかと思うとなんだか泣けてきた。
その年の冬、私の誕生日にじいちゃんは亡くなった。
肺炎だった。
連絡来た時にはもう遅くて「最期だから」と呼ばれて家族で会いに行った。
行く途中で私の誕生日ケーキを買い、じいちゃんの所へと向かった。
じいちゃんは呼吸が苦しそうに上に向かってポカンと大きく口開けてヒューヒューと息してた。
口の中はカラカラ。
ヘルパーさんもばあちゃんも母さんもじいちゃんはこれで最期と言っていた。
私は何も言えず、じいちゃんの顔を見るだけだった。
じいちゃんの目がグルンとこちらを向いて、目がバッチリあった。
怖くはないけど、ほんとに最期なんだ、目に焼き付けてるんだって思った。
翌朝早くにじいちゃんは息を引き取った。
救急車をそこで呼んで、病院で死亡確認をしてもらった。
私や兄は親戚たちと一緒に部屋中を掃除して通夜の準備をしていた。
今までじいちゃんと過ごした時のこと思い出して、もっともっとじいちゃんと過ごした時を大切にすればよかった、あの時つまらないなんて言わなければよかったと思い出しては泣いて泣いて辛かった。
じいちゃんの遺体が家に戻り、その日の夜は家族で変わりばんこに火の番をすることになった。
火を絶やしてはいけないと言われ、火事にならないように1人ずつ数時間起きて火を見守ることになり、じいちゃんの近くに皆の布団を敷いてストーブも用意した。
田舎は雪深くてとても寒い所だった。
ストーブ3台つけても全く足りなくて、家族で固まってストーブの前に張り付いていた。
私はストーブの真ん前を陣取り、ベッタリくっ付いて寒い寒いと騒いでいた。
すると、突然背中の真ん中をグングンっと引っ張られた。
え?と思ったと同時に耳の近くで声がした。
「あんま近づくと火傷するで」
じいちゃんの声だ。
そんなはずは無いと思い、振り向くと私の真後ろにはお父さんが居た。
お父さんに「引っ張った?火傷するって言った?」と聞くと「引っ張ってないし声掛けてない」と。
今あったことを話すとお父さんは
「あーじいさんすぐそこで寝とるけん、お前のこと見えとったんじゃろ。火傷するで〜って心配になったんじゃろうな〜」
と言った。
確かに、じいちゃんすぐそこに居るから、まだ近くに居るから私の事気にかけてくれたんだ。
じいちゃん最期まで優しい人だった。
ちなみに、夜中中布団の周りをグルグルグルグル歩き回る足音がずっとしていたらしく、翌朝お父さんとお母さんが「死んだなら大人しくしとれや!」と棺に向かって怒ってた。
この足音は49日過ぎるまで続き、ばあちゃんが「やっと居らんようなったのにのぉ〜!死んでもやかましい人じゃったで〜!!!」と笑いながら言っていた。
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