
研究生という名の「フリーター」で過ごした一年を振り返る①
絶望の合格発表(2024.2)
受験番号が、ない……
これは一年前、博士後期課程の合格発表のサイトを見たときの、最初の自分の反応だった。
そう、私は博士後期課程の試験に落ちてしまったのである。
有名大・大学院卒(修士)の新卒カードを切って有名企業に就職するか、博士後期課程に進学して研究者の道を歩むかを悩みまくって泣きまくって体調を崩しまくって「博士に行きたい」と決意した結果、それができなかった。
色々心当たりはあった。「博士後期課程に進学に値するクオリティの修士論文」を完成させること、修論を踏まえた博士後期課程での研究計画書を練り上げることができなかったからだ。
進路を悩んで体調を崩し、半年ほど研究がまともにできなかった時期があった。なんとか研究ができるようになった中でも、地元でまちづくりの仕事を週3でしながらだと時間を十分に割けなかった。それゆえに、修論を提出する数週間前に「あなたの論文だと博士後期課程に進学するのはかなり厳しい」と指導教官から宣告を受けてしまっていた。
だからといって怠けて修論を書いていたわけではない。そもそも体調を崩したのは、M1の時に重めな授業を沢山とってどの授業でも真面目に議論し、図書館に籠って先行研究を漁りまくり、研究に関連する地域や教育関係の仕事を色々やり..と頑張りすぎてバーンアウトしたからである。
また、自分の所属していた大学・大学院はいわゆる「有名大学」で、それなりに課外活動をしていて豊富な「ガクチカ」を持っていて、周りの友人・知り合いのように大企業や官公庁でバリバリ働くか、博士後期課程に進学するかをかなり悩んでいた。やってみたいこと、自分に向いているのは進学だけど、親しい人から「新卒カードを捨ててまで進学することなの?」と言われることもあり、本当に悩んだ。
※体調を崩した背景はこちら
※バリキャリの選択を辞めて地元のまちづくりの仕事を始めた背景はこちら
結果を見てから、ひとまず家族と、色々気にかけてくださった研究室の博士後期課程の先輩方、他大の博士後期課程の先輩に連絡をした。他大の先輩に電話した時は、もう放心状態で、涙が止まらなくてとにかく泣き叫んでいたことしか記憶がない。
合格発表の日は、泊まっていたドミトリーのベッドで泣きながら天井を見ていた。17時くらいまで水すらも口にできず、涙が枯れるまで泣いた。
17時くらいにやっと水を飲めた時、メガネが塩だらけでびっくりした。涙が蒸発して塩だけがのこったらしい。自分は泣き虫な人間だけど、ここまで泣くのは初めてだった。
コンビニで買ってきたお酒とお好み焼きを食べながら、泣きながら最近知り合った人と深夜まで電話していた。こういう時、同情なしで話を聞いてほしくはない人間なので、利害関係があまりない人に聞いてもらうのはよかった。
次の日、なんとか10時頃に起きてパソコンを開いたら、合格発表の数時間後の時間に指導教官からメールが来ていた。不合格にした理由と、今後のことの提案が書かれていた。「進学準備や就職のために、後期のゼミの単位を落としてM3をやるか」という提案だった。そう、いわゆる「新卒カード」を死守するための留年ってやつである。反射神経的にM3になって留年すると返信した。
あと最悪だったのは、さらに次の日にサブゼミの飲み会をセッティングしてしまっていたことだった。自分以外の参加者は、博士の試験の面接官だったサブゼミの先生、無事に博士の進学が決まった同期、同じ研究室の先輩だった。指導教官の次に顔を合わせるのがしんどい人たちだった。
頑張って行った。サブゼミの先生は「○○さんと××先生は相性が悪いから」と擁護してくれたが、とはいえ修論はあまりよくなかったとのことだった。
「他の大学院に移るのもありなんじゃない?」とも助言を受けた。
たしかに、修士まで在籍した研究室は自分にとって居心地がよくなかった。指導教官は非常に有名な先生であるし、先生の考え方が凄く好きで院に進学しようと思っていたけど、指導のあり方が(自分に対しては特に)怖かった。まず、否定寄りの批判から始まるフィードバック、威圧的な雰囲気…。
ゼミの日は毎回お腹が痛くなったし、怖すぎて先生のコメントも他の先輩のコメントも頭に入ってこないことがほとんどだった。さらに、先生は個別相談をほとんど(というか全く)設けない「放任主義」なタイプの教育方針だったので、研究に関してじっくり指導いただくことがあまりできなかったように見える。
それに耐えられる人でなければ昔は研究を続けることができなかったし、耐えられない自分は「おかしい」と思っていた。(それもあって体調を崩した)やっぱり、就職したほうがいいのかな..と思い始め、急に就職サイトを漁ったりもしていた。
でも、他の研究室に所属する博士後期課程の先輩に「今の時代はどんな人でも研究できるのが理想なのに、あの研究室はそうでない」と言われたのを思い出した。
正直、博士後期課程以降もあの研究室で耐えることは限界だった。他の大学院に行くならどうすればいいんだろう..と悩みながら、サブゼミの飲み会は解散になった。
地元に帰る時、本当に悔しくて、悔しくて、全117ページ、12万字の修論を全部破って駅のゴミ箱に捨てた。泣いた。なんとか、生きた。
なんとか持ち堪えられたのは、Xで繋がっていた研究者、大学院生の皆さんにDM等で励まされたからでもあった。自分もそうだったけど今は博士課程で研究していること等を教えてくださったことでなんとか落ち着くことができた。
ふくしデザインゼミと周囲のつながりで命拾いした2月~3月
なんとか帰宅した後は、週3でまちづくりの仕事はあるし、落ち込んでいる暇を敢えてなくした生活を送った。
博士に進学する人でストレートで進学する人ばかりでないこと、それはいわゆるレベルの高い研究科だと発生することを知って、なんとか自分を正常に保とうとしていた。
仕事だけでなく、「ふくしデザインゼミ」という、地域社会に福祉(ふくし)をどのように広げていくかを学生や若手社会人が考えていく外部のゼミ活動に参加して、その場が当時の自分にとってはいわば「ケア」「セラピー」のような場だった。
社会学すること、まちづくりをすることをしてきた自分にとって、大学・大学院6年間の集大成的な活動にもなったし、福祉や地域と向き合うことは、自分自身に向き合うことでもあった。そして、それをゼミ生同士で語り合い、分かち合うことができた。そんな場のおかげで、なんとか日常生活を送り、なんとか仕事をし、なんとか社会学すること、社会について目を向けることが嫌いにならなかった。
↑ゼミで執筆したエッセイはこちら
あとは、大学3年からインターンしているまちづくりの会社のファシリテーション講座の運営をして、地域に関わることから離れちゃいけないと強く思っていた。
有名私立大から国立大へ移る選択をする(2月)
なんとか日常を取り戻した2月中旬、他大の先輩から「先生が、うちの研究室に来ないかと言っているんだけどどう?」と連絡があった。
その先生は、先輩を介してM1の時から読書会をさせてもらったり、学会に誘ってくれたりと良くしてくださっていた。
すでにその大学院の博士後期課程の試験は終わっていたので、研究生という立場で大学に在籍することになること等を教えてもらい、手続きを行った。
それと同時に、M3で留年することを撤回し、この春で修了し大学院を出ることを指導教官に伝えた。とにかく、所属する大学院、研究科の外に出たかった。
お葬式のような修了式(3月)
修士課程修了後の進路(?)はなんとか落ち着き、大学院修了が正式に決定し、行くか悩んだけど修了式に行った。
自分の研究室の同期は諸事情で留年したし、大学院の修了式は大学の卒業式と異なりこじんまりとしたものだったので、ひっそりと修了した。
急遽、専門社会調査士の取得申請をしないといけなくなり、あまり眠れない状態で、大雨の中の修了式で、自分の進路が晴れ晴れしいものでなくて、かなりしんどかったけれど、ひとまず大学を含めて6年間お疲れ様という区切りをつけたかった。
本来は袴か振袖を着ようと思っていたけど、そういう気分じゃなくなったため、黒のワンピースで出席した。お葬式みたいだった..
正直、大学受験を失敗して進学した大学だったし、自分の高校では「この大学に行くくらいなら浪人」という考えだったから、最初からあまり好きでなかった。この大学のおかげで、学部2年での交換留学、複数の副専攻の修了、学際的な履修、国公立大ではできない学生が大学職員として勤務する経験、離島ボランティアなど地方での地域活動…etc、と非常に充実した教育機会を得ることができたと思う。
でも、私立大学ゆえに学生数が多く、教員との距離が遠く、安定したコミュニティを見つけづらいことは、自分にはきつかったなあ..と思っていたし、最後の最後にしんどいことがあったので、「この大学は私は好きになれないし、向いてない」と思ってしまった。
最後に、大学1年からお世話になった指導教官に挨拶に行った。涙が止まらなかった。指導に関してはしんどいことが多かったけれど、自分が社会学の面白さを知り、大学院に進学するきっかけを与えてくれたのは、まぎれもなく指導教官だったから。
写真をお送りした際に返信していただいたメールには、「今後、焦らず、慌てず、落ち着いて」というようなメッセージが書かれていた。
もっと、強くて、良い意味で鈍感で、論理的にバリバリ研究できる人間になりたかった。でも、弱くて、良くも悪くも敏感で、論理的にも一応できるけど本来は非論理的な思考を持っている人間である自分には難しかった。
なんとか専門社会調査士の申請も終え、お世話になった人々への挨拶も終え、急遽退職になってしまった大学関係の仕事の処理も終え、入った時は大嫌い、出る時はモヤモヤな大学を後にした。