こじつけ上等、雹を初雪パーティーと称した日に思うこと
帰り道、駅から出ると足元がざらりとした。
砂利?アスファルトなのに…?
予報通り、一日中降り続いた雨は、
まだやまずに夜の道路を黒々濡らして、
信号の光を映していた。
落ちた雨粒は、地面に未だ転がっている。
急に聴きたくなった、Ashantiが流れるイヤホンを外したら、ぱらぱら、ばばば、からんからんと雨ならざる音がした。
雹…!
傘をひらくと、
傘の上で跳ねる感触が手に伝わる。
これはいい!
とにんまりした。
あまりに大きいものだと、窓を割ることもあるらしいので、一概に喜んでばかりもいられないのだけれど、初雪、集まっちゃいました!くらいの大きさなら許容範囲。
なにしろ、『初雪の日は何かを始める日』と
決めているから。
学生時代、息巻いて今度こそ!使い倒すぞ!!
と選び抜いて買った手帳を下ろすのは、初雪の日と決めていた。
最初はなんてことはない偶然で、たまたま地元のロフトで、世界地図がくすんだゴールドに印刷された表紙に一目惚れして、手帳を初めて買ったその日、タリーズで大人ぶっていたら初雪が降ったのだ。
高校生にタリーズのコーヒーとキャラメルとナッツを練り込んだ大盤のクッキーは、ご褒美だった。だってお腹もいっぱいにならないそれらで、1000円近くしたから。
田舎のバイトもできない女子校の生徒には、
ずいぶん大人なアイテムだった。
加えて定額のお小遣い、という制度がなかった我が家は、とにかくお正月のお年玉を貯め込み、時々おばあちゃんやおじいちゃんがくれるお小遣いをやりくりして遊んでいた。
1日に、手帳も買って、タリーズでお茶するなんて、めちゃくちゃ贅沢してる…!
と思ったその日の夕方、雪が降った。
なんとなくその雪が、毎年見慣れているはずなのに福音めいて見えて、そのまま手帳に、こういう人になりたい、だからこうする!と野望を書いた。
…と、大袈裟に書いてはみたけれど、結局手帳は半年ほどで書き込まれなくなり、机の引き出しの奥に入ったままになった。
もちろん、行動を伴わない目標に達成などというゴールがついてくるはずもなく、毎年似たような野望を書き込んでは、年末にため息をつく、という悲しくて情けないルーティンの出来上がり。
情けない…!
そんな情けなさを何度も体験したにもかかわらず、なんとなく初雪の日だけは雪!と喜べるようになった。
北海道の田舎で育ったわたしには、雪はありがたいものでもなく、とにかく1年の約半分、地面を覆う小憎たらしいもの。
なにせ晴れれば夜にはつるつるになるし、一度解けて再び凍った日には、ざりざりの冷たい砂になる。転ぶと痛く、手をついても手が擦りむける。
飽くことなく降り続くせいで、電柱に巻かれた黒と黄色のしましま模様のカバーは見えなくなり、夏は肩の位置にある祖父の家のまわりを囲むイチイの木は膝の高さになった。
それでも、あの、なんだかいいもの見ちゃった!
みたいな気持ちが忘れられず、初雪の日だけは、お、初雪!と少し心が浮く。
帰り道、とつぜんの雹。
初雪、大集合!
みたいなそのささやかな塊が、地面を楽しげに転がっていく。
思わぬ寒さに肩をちぢめながら、これはなんだか、いつもより盛大なパーティーのようで、と思う。
こりゃ、あの福音の上行っちゃったか?
と信心深い方が聞いたら怒りそうなことを思う。
今1番やりたいことを、今日はしよう。
うん、文章を書こう。
そうして、今いつもより厚着をしながら、
少し肌寒い部屋の中でこれを書いている。
もっと、もっと書きたい。
読みたいと思われるものを、自分が読みたいと思う表現を。
派手な何かが起こるような、物語でなくてもいいから、日常のそこにあるもののあたたかさと、ささやかさを。
冬の日、少し目を離していれば見えなくなる、
コーヒーの湯気くらいのほんのりしたものを。
そんなふうに、日常を切り取れる、目と感性を育てていけたら、と初雪パーティーの日に決めた。
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