彼女はたぶん、その本を読まない。
「心中なんて馬鹿げてると思わない?」
苦々しげに目を眇めて彼女は言う。
「結局はエゴイズムでしかない。人生が今だけだと思っているんだわ」
彼女の膝の上には一冊の本があった。
背表紙に並ぶ文字は『曽根崎心中』だ。
「今度は近松門左衛門?」
「当時は片方が生き残ったら極刑だったらしいけど、現代じゃ有り得ないわね。せいぜい七年塀の中、あとはお気楽な人生を歩むだけよ」
笑いとも溜息とも取れる息を吐き出し、彼女は両手を本の上に乗せた。
どうやら彼女の琴線に触れる内容だったらしい。
「ほんと馬鹿げてる。自分が自然発生の賜物だとでも思っているのかしら。祖先がどれだけの労力を費やして血を繋いできたと思ってるの? それを一時の感情で」
「棄てる、のが許せない?」
気に入らなかったのは口を挟まれたことか、続きを言い当てられたことか、あるいは両方か。
彼女は一瞬目を見開いて、すぐに不機嫌な表情を作った。
「…そんなんじゃないわ」
一文字に結ばれた唇がゆっくりと色付いて、彼女が唇を噛んでいることに気付く。
僕は窓に視線を移し、ベッドから腰を浮かせてカーテンに手を伸ばした。
差し込む西日は綺麗だけれど、いささか眩しすぎる。
「ねぇ」
「なに?」
「あたしと、心中しない?」
思わず「いいよ」と答えそうなほど自然に、彼女は僕の背中に言葉を刺した。
肩越しに振り返った先、彼女は橙色に染まっていた。
髪が瞳が溶けそうに透けて綺麗だけれど、綺麗だけれど。
いささか、儚すぎる。
「……それは『いちご同盟』だっけ」
「当たり、だけどハズレ。実際には読んでないの。漫画で引用されてたから知ってるだけ」
僕はカーテンの端を掴み、境界線を引くように一息に閉めた。
僕と彼女を白い世界に閉じ込める。
「まだ、読んでないの」
ぽつり、落とされた言葉が涙に見えて、彼女をこの世界に閉じ込められたらいいのに、と思った。
ガラスの内側でふたり、スノードームのように終わらない時間を。
そんなことを口にしたところで、きっと彼女は「馬鹿げてる」と笑うだろう。
白いベッドの上の彼女の手は、今日も白かった。