もどかしい案件
初日の講義内容や資料を講義後にシェアしてもらえるので、今朝は動画を再生しつつ、ノートを整理した。
受講中、たしかに聞いていたはずなのに、あらためて聞き直すと取りこぼしている言葉ばかりでびっくりする。理解しなきゃと張り切りすぎていたのか始まったばかりで緊張していたのか……。いずれにしても表面的にしか受け取っていないことがいっぱい。
でも、音声をアプリを使わずに、自分で文字に起こしていくと、リアルタイムで感じたこととはまた違った感覚で自分の中に入ってくる。もう一段、奥深くに届くような、そんな感覚。
言葉として理解するだけじゃなく、その背景にあるものや込められたエネルギー的なものを、自分の書いた文字を通して一緒に受け取っているのかもしれない。
自分の神話については、何度もブログ、メルマガなどで見ていたはずなのに、自分の神話とは何かをあらためて書き写している最中に、何かがぶわっと込み上げてきた。
私は大切なことを犠牲にすることなく生きていきたいし、天に使ってもらって本当の願いを叶えていきたいんだよおおお!
自分で扱っている数秘術はもちろん、そのほかいろいろなツールやセッションを通して、自分の使命がどんなものかというのは、自分自身でキャッチできているつもり。だけど使命を果たしているかというと、正直自信がない。
つまりは、使命がビジネスには繋がっていない、お金には繋がっていないってこと。そのことを、ずっともどかしく感じてきた。
もちろん「使命を果たす=ビジネス」ばかりではないことは百も承知。私だって、これまでの人生において、母親であることこそが使命で、お役目だと思って愚直に取り組んできたのだから。(端折って、母親であることが使命って書いたけど、そんなひとことで使命は言い表せないと思ってる)
だけど、常につきまとうのは、母親であることが私の使命だとして、それが仕事にだって反映されていいのでは? お金にだって反映されていいのでは? ってこと。
そんなふうに考えてしまう自分が、すごく俗的で嫌だなと思った時期もあるし、お金お金ってがめついなと思うときもあった。だけど実際には、お金がなければできないことはたくさんある。お金を求める自分を否定することのほうが、不自然なのかもしれない。
私のところに来てくれるお客様たちだってそう。使命を知ってはい終わり、ではなく、本当はその使命を何らかの形で果たしたくてウズウズしているように感じることが多い。
お客様が喜んでくれたら。
誰かの人生に関われたら。
自分の好きなことができたら。
それだけでオッケー?
ほんとうに?
そう思いながらも、私自身ができていないことは、人様にお伝えできるわけもなく。それもまた、もどかしい案件のひとつになっている。
でも上に書いたように、しかるべきタイミングで開花するようになっているのなら、そのタイミングを楽しみに待ちながら、今やるべきことを淡々とやっていこう。