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試み

特筆すべきことも無い、パッとしない1人の大学生による、モラトリアムを最大限駆使した驚くべき悪あがきを、どうか生暖かい目でみてやってほしい。

大学生になって初めての冬が眼前に迫る。サークルのご飯会を終えた帰り道。
満たされない気持ちを抱えてひとり、帰路を散歩道に急遽変更した。
寒空の下、やけに綺麗な星を眺めながら。

散歩道で感じた寂しさを分析して自分と向き合うために、初めて不特定多数に閲覧される恥ずかし〜ぃ日記を書いてみる。という、試み。
(かったるい文章が続きます。喝を入れながら読んでください。サンデーモーニングの張本勲のごとく。)

私は自己表現が苦手だ。もっと言うと、他人と共通認識を持つことさえ苦手なのだ。
具体的には、こういう時こう感じるよねという感情の認識とか、こういうことをしたんだよという報告に対するレスポンスが他人とズレている。確実に。

現にこうして文章を書いている最中でさえ、「ああ、伝えたいことがとっ散らかっていく」という感覚に苛まれる。今これを読んでいる貴方も、冒頭からこんなに読みにくい文章を読んだことは無いだろう。ご容赦願いたい。

これは口下手とか自我が無いとかそんな単純な話では無い。“そんな単純な話”にしたくないという自意識とわがまま、そして肥大化した主観の賜物である。平たく言うと、「私の意図するところが伝わらないのは、貴方がたが追いついていないからだ」という根底にある意識なのだ。はっきり言ってサイアク。

そのように思考を自己で完結させて逃げようとするねじ曲がった根性と見てられないレベルの文章力の無さにテコ入れするため、noteを始める。今まで自分だけが読む日記をつけたりTwitterで呟いたりはしてきたが、どうも他人の目がなかったり匿名性が低かったりすると薄っぺらい言葉になってしまう気がする。そんな私にnoteはちょうど良いのでは無いだろうか。
しかも知らない誰かにちょっと長めの文章を読んでもらうだけで簡単に“プチ生きた証”を残せるの美味しすぎる。
この試みが三日坊主となるか否かは天のみぞ知る。

さて、なぜ私が自己表現についてうじうじと考えているのかというと、理由は単純。今まで人生で1度も好きな人に好いてもらえた事が無いと気がついて、しんどくなったからだ。なんと浅ましい。幼い。大学1年生なんてこんなものなのか。自分でもちょっとガッカリする。

でもこれって、これからの人生を生きていく上できちんと考えていくべき問題なんじゃないか。そうなんだろう。そう確信している。恋愛に限らず、人間関係全般に言える話だから。

そもそも自己表現の能力が無いと、ひとと愛し愛されるという関係性を築くことが出来ようもないということは、こんな私でも想像に難くない。
そして私の自己表現の下手さは主に、自己の客観視経験の欠如と自己開示のぎこちなさに起因すると考えた。

具体的には、
・基本的に生活の中であまり人の目を意識していない
・自分磨きを怠っているため、容姿や服装、内面や振る舞いが十分に魅力的でない
・問題の本質から逃げ、脈アリサインなど小手先の術に頼ろうとしている浅ましさ
・自己開示の速度が相手と異なりすぎている
・浅い関係性に対して私からの好意が謎にデカすぎて相手が怖がる
・会話のテンポやラリーが噛み合わない
・ガワから見てぱっと分かる個性が無い
といったところだろうか。

これからこのnoteを、これらの欠点の解決に役立つ(?)客観視経験として運用する......だけではなく、日常の考え事のアウトプット(言語化)の練習台などとしても使っていこうと思う。

仮に彼氏が出来たとして、私の悩みは消え失せて脳内お花畑になってしまうのだろうか。あるいは、新たな悩みを見つけてはウダウダとここで能弁を垂れているのだろうか。

どちらにしろ、頭の中で浮かんでは消えていく大事そうな何かを留めおく気力があるうちは拙い文章を絞り出そうとするだろう。

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