丁寧なインターネット生活を心がけたい話 ~楽しいSNSのために~
私はTwitterに生息するオタクです。ツイッタラーとまでは名乗りませんが、日に最低でも数ツイート、たいていは十数の投稿をしています。そしてありがたいことに、最近は以前にもましてフォローしてくださる方が多いようです。この記事を執筆している2022/2/27時点でフォロー数314/フォロワー数670、フォローバックされない公式系のアカウントをあまりフォローしていないというのもありますが、それにしても倍以上の比率になっています。ありがたい限り。
ただ、フォロワーが増えるということはそれだけ自分の投稿が多くの人に見られているということ。誰かが「フォロワー数は自分に向けられた銃口の数」と言いましたが、(私はフォロワーを敵だと思っているわけではありませんが)確かに炎上可能性という意味ではそういう捉え方もできましょう。
そもそも炎上云々だけでなく、SNSをやるからにはできるだけ楽しく過ごしたいもの。ですがインターネット上には誠に残念なことに義憤や不安、批判に中傷が溢れています。そうした中にあって、なるべく楽しく、幸せなSNS生活を送るには自らがどういうスタンスで居れば良いか。フォロワーが増えてきた今日この頃改めて見つめ直そうと思い、自戒のためにこの記事を書くことにしました。ただ以下に述べる考えは自分だけでなくSNS利用者に広く共通して適用してもらえるのではないかとも思っておりますので、本記事が皆様の楽しいSNS生活、ひいては幸福な人生の一助になれば幸いです。
意識的に送る“丁寧なインターネット生活”
まず何より、より良いSNS生活を送るためには、常に自分の言動に意識的である必要があります。
何も考えずタイムラインに反応してツイートしていては、先述したような義憤、不安、批判、中傷に容易に流されてしまいます。これは人間の本能的にそうしたものに言及することで脳内に快楽物質が生じるようにできているから、と言っても過言ではないでしょう。ですがそれらに流されることは、不必要な怒りや不安、攻撃性といったネガティブな心理性を増幅しながら抱えていくことになり、精神に良くないだけでなく自らも炎上可能性を孕む上、そうした感情を利用した陰謀論や詐欺に巻き込まれる危険性すらあります。そして何より、そんなSNS生活は楽しくも幸せでもないでしょう。
楽しいSNS生活を求めるためには、そのSNS生活のあり様について常に意識的でありましょう。Twitterで言えば自分がツイートするとき、RTするとき、リプライするとき…あらゆる発信を行う前に、一瞬立ち止まってその発信が本当に望ましいかどうか考えましょう。以降、本記事では「では何が望ましいのか/望ましくないのか」について具体的に考えて行こうと思います。
タイトルにもありますが、自分のあらゆるインターネット上での言動に対してすべからく意識的であろうとするありようを、“丁寧なインターネット生活”と称することにします。この言葉は私が言い出したものではなく、バーチャルYouTuberの名取さなさんが自身に対して抱負(?)として表現しているものです。インターネット上で活動し、かつインターネット上の出来事や文化に造詣が深くエンターテインメントとして言及することも多い彼女は、その活動のうちで閲覧者に負の感情を昂らせることが極力無いよう常に思いやりと気を遣いながら発信しており、その様を“丁寧なインターネット生活”と表しているのだと私は認識しています。私は彼女のそうした姿勢を尊敬しており、より良いSNS生活のために彼女の言葉を借りて、“丁寧なインターネット生活”とはどういうものか自分なりの理解を書き連ねていくのが本note記事、ということになります。
前置きが長くなりましたが、では具体的に「その発信が本当に望ましいか」とはどういう判断をすればよいか、丁寧なインターネット生活のための尺度を一緒に考えていきましょう。
負の感情はわざわざ言わない;好きなものの話をしよう
私が最も意識していることとして、目にした何らかの事象に対して負の感情を抱いても、それをなるべくインターネットに発信しないということです。
当然のこととして、好きなものの話をしているところに負の感情を惹起される人はそうそういません(その「好きなもの」が社会通念上問題ないものである限り)。「カレーが好き」という話をしているのを見て「カレーが食べられない人の気持ちは!?」とか「シチューは嫌いってことですか!?」みたいに突っかかってくる人が居たとすれば、普通そっちの方がやばい人です。しかし嫌いなものの話をすると、その「嫌いなもの」を好きな人が見たとき負の感情が湧き起こることは想像に難くないでしょう。例えば「シチューが嫌い」という話が盛り上がったとして、シチュー好きの人がそれを見たら悲しい気持ちや怒りを感じるだろうことは容易に想像がつきますし、それは事実として人を傷つけたことにもなります。その気がなかったとしても、シチュー好きの人やシチューを作る人を否定したと捉えられるかもしれません。そうして非難や炎上が形成されていきます。
つまり、構造的に「嫌いなものの話」のように何かに対する自身の負の感情を発信すると荒れやすく、反対に「好きなものの話」のようにポジティブなことだけ話題にしていれば荒れることは考えにくいです。先に述べたようにインターネット上には義憤や批判など様々な負の感情が渦巻いていますが、それらを目にして同様に負の感情が沸き上がったとしても、それを投稿するのはぐっとこらえましょう。そして、好きなものや楽しいことの話題を意識的に発信するようにしていけば、他者と喧嘩になるリスクも少なく、何よりインターネット生活が明るくなります。言霊とよく言うものですが、自分の口にした言葉が逆に自意識に影響するもの、ネガティブなことばかり喋っていたらそういう意識になっていきますし、反対にポジティブなことを話題にしていればそういう気分になれるものだと私は思います。
人や話題に粘着しない;スルースキルと諦め
前段の「負の感情をわざわざ言わない」にも通じることですが、そもそもそういうネガティブな話題を見ない/見たとしても粘着しないということが大事です。だいたい、そんな話題の大半はあなたの生活にとって何ら関係のないことではありませんか?誰それが問題発言をしたとか、ネットの向こうの誰かが酷い応対をされたとか、その出来事がどうにかなったとしてあなたの日常に何か関係あるんですか、と一旦冷静に考えてみてください。そして関係ないのであれば、あなたが義憤に駆られて話題にする必要もないのではないでしょうか。
確かにSNSという娯楽に常に建設的であることを求めるのはナンセンスですから、話題になっている事象についてコメントしたくなることは否定しません。ですが、ことネガティブな事象に対してそれをさも自分事かのように粘着して話題にし続けるのは無意味に負の感情を増幅させていくだけです。それどころか、仮に自分に関係ある出来事であっても、そのインターネット上での言及が建設的な解決に結びつかない限りは同様に話題にする意義は特段ないはずです(何かの問題提起など話題にすること自体に意義がある場合もありますが)。例えばあなたがバスの運転手に酷い対応をされたとして、それはTwitterに書き込むのではなくバス会社とか運輸局に通報したほうがよっぽど建設的で速やかに解決に向かうでしょう。
基本的にインターネット生活ではスルースキルというものが求められます。文字通りスルーする能力、何かを見て何かを感じたとしても、それをわざわざ自分事として捉えるのではなく「関係ないならいいや」と無視することです。あるいは、もしあなたに関係があったとしてもその行動(インターネット上での発信)に建設性がない場合は同様に発信することをスルーすべきです。例えばリプライで変な奴に絡まれたとして、そいつに真面目に対応していっても解決する兆しが見えない場合は、応酬しても建設的ではないわけですから早々にその相手を諦めるべきでしょう。それだけでなく、世の中の大半は自分にはどうにもできないことであり、そのどうにもできなさを諦めれば、話題にすること自体がさして意味のないことであると気付けるはずです。むろん意味のないことをするなとは言いませんが、意味のない事柄をさも意味深いことであると勘違いして粘着するのは、自分の精神のためにもそれを見る他人のためにもよした方が良いでしょう。
皮肉は慎重に
インターネットの娯楽は「皮肉」や「馬鹿にする」と常に同居していると私は考えています。漫画作品の「翔んで埼玉」あたりが好例でしょうか。SNSにおいても、炎上している話題を皮肉って上手いことを言おうとする大喜利が流行っているのを見たことがある人も多いはずです。
皮肉はインターネット文化の一つであるとも言えますし、それをやめろとは言いません。ただ当然のこととして、皮肉られた側、馬鹿にされた側への配慮を忘れてはいけないでしょう。「翔んで埼玉」のように馬鹿にされる側(埼玉県人)の間でもおおむね合意形成がなされている場合はまだ良いですが、例えば何らかが炎上している最中でそれに対する皮肉は、その炎上に心を痛めている少なくない人々を嫌な気持ちにさせることもあるでしょう。あなたが常に皮肉をする側に居られるとは当然限りません。皮肉られる側に回る可能性があることを考えれば、そこに思いやりの気持ちを持てるのではないでしょうか。
類型の人々を同一視しない
これはインターネットに限らず対人認識の基本として主張したいのですが、類型化された人々を「全く同じもの」として見るのはやめましょう。端的に例示すれば、「男は皆○○」「女は皆○○」「オタクは皆○○」「××に住む人は皆○○」といった物言いには慎重になるべきです。その表現にネガティブな向きがあるならまずやめておくべきですし、そうでなくても、あるいは本心ではなくネタとしての発言だとしても、誤解されないよう留意は必要でしょう。例えば「男は皆ロボットものが好き」という発言は、別にそうとは限らないことが明らかなので本気ではないネタということが一目で分かりますし、加えてロボットものを別に好きではない男性が見ても特に何も感じないでしょう。しかし「男は皆トイレの後手を洗わない」みたいなネガティブなことを言い出すと、それが本心ならもちろん、ネタとしての発言であってもそれが伝わらなければ、当然反感と反論を生むでしょう。もし本当にそういう傾向があったとしても、ちゃんと手を洗う人も居るわけでその人達からすればあらぬ誤解を被せられることになります。
人を類型で括って同一視するという行為は、別の言葉に言い換えることができます。「偏見」そして「差別」です。上記では敢えてマイルドな例を挙げましたが、構造的には人種や性別や出身地で人を差別視することと同じです。確かに類型で同一視することは状況認知を単純化できるので自分にとって楽でしょう、しかしその雑な認識は容易に人を傷つけもします。この手の表現のネタ的な発言までやめろとまでは言いませんが、少なくともネタならそうと分かるような文脈や表現は添えるべきでしょう。そして何より、本心でそんな認識や発言はすべきではありません。
(綺麗事ばかりでは…;裏垢/鍵垢をつくる技)
ここからは少し黒い話をします()。
ここまで色々言ってきましたが、「何を綺麗事ばっか並べて」と思われる方もいるでしょう。なぜなら自分でもそう思うからです()。所詮SNSなんてのはタン壺で便所の落書き、負の感情を吐き出す場所として使って何が悪いんだと。それも一理あります。ただ、それを普段使いのアカウントで発信するから、誰かを不快にさせたり非難されたりするのです。そう、必要なのはゾーニングです。
一つの解決策として、裏垢や鍵垢を用意してそっちに吐き出すというやり方を勧めておきます。フォロー/フォロワーが0だったり、外から全く見られないよう鍵をかけたりして極力影響力を抑えたアカウントを作り、そこで負の感情や表で言えないことを殴り書きにするのです。むろんデマや誹謗中傷など犯罪行為にならない範囲に留めておく必要はありますし、時と場合に応じて投稿を削除することもした方がいいかもしれませんが、そういった捌け口を用意しておくと精神衛生を保つ上で役に立つことでしょう。ただしその裏垢の闇に自分自身が飲み込まれないようにご注意を。吐き出すだけ吐き出したら元のアカウントに戻りましょう。
まとめ;思いやりという愛
楽しいSNS生活を送るための具体的なアイデアについて考えてきました。総評すると、結局のところ“丁寧なインターネット生活”とは「自分にも他人にも思いやりを持つこと」であることに収束すると思います。自分の言動は自分自身にも直接影響しますし、当然他人にも影響し、それが自分に返ってくることも考えられます。であれば自分自身にも他人にも思いやりを持った言動、より具体的にはその発言をした後の自分自身そして相手の立場を考えることが、根本にある大切なことだと言えるでしょう。インターネットの窓から何かを発信するとき、必ず窓の向こうへの想像力と思いやりを働かせるという一種の愛を常に携えることが、丁寧なインターネット生活ひいては楽しいSNSを実現するための核なのだと思います。
最後に、この記事で挙げた内容はいわば理想です。書いている私自身だってこの全てを厳密に遵守できるとは思っていません。ただ、自分に出来る範囲で出来ることを、なるべく丁寧なインターネット生活を心がけることが、皆がこのSNS社会で楽しく過ごせることに繋がると信じています。この記事が少しでもそのお手伝いになっていれば幸いです。
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