【熊野信仰をめぐる】一遍上人と本宮、 奥州に散った一遍の祖父とは
2023年2月、和歌山県新宮市で開催した「熊野の魅力再発見」のイベントで、初めて紀州へ訪れた時に、熊野比丘尼さんから
大斎原(旧本宮)にて、一遍上人の話を聞きました。
大斎原には、一遍上人の大きな碑があります。
一遍は、たくさん神社参りをしているので、 神社も好きだったようです。
なぜ、ここに一遍上人が?と思いましたが、
こちらの本を読んで熊野本宮が一遍上人の教えを
大切にしてきたことがわかりました。
本を参考にまとめておきます。
古くから熊野信仰は、神仏習合です。
熊野本宮社では、一遍の命日、毎月23日に月例祭が行われ一遍にとって熊野は「悟りを開いた大事な地」だったそうです。
それを本宮社が大事にされていた事。
一遍上人は「時宗」を開いた人です。
※鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教「踊り念仏」をあみだした。
『一遍聖絵』は、新しい宗教を開いた人生(遊行上人)を描いた絵巻。
一遍の異母弟(一説には実弟または甥)で、その弟子ともいわれる聖戒がその報恩のために作成したもの。
「聖絵」ともよび、北は奥州まで信仰は広がっていたと言われます。
その一遍について、先代の宮司、九鬼宗隆氏(故人)の手により顕彰文を彫ったもので、前半は、一遍の生涯の紹介になっているもの。
「一遍上人は伊予国(愛媛県)の豪族、河野一族の一員として延応元年(1239年)に生まれた。幼名は、松寿丸(しょうじゅまる)、出家して法名を随縁(ずいえん)、のち智真(ちしん)と改めた。」
神仏一体の地として、後世に残したいと、九鬼氏(現本宮宮司)より、大斎原に石碑を建てたそうです。
ところで、この熊野本宮社の一遍に対する篤い信仰は、どこから発しているのかは、聖絵による熊野信仰だから、というのもあるのですが、
一遍の祖父も関係しているのではないか、と思い、一遍は祖父の影響から仏の道を目指したことがあり、祖父が水軍の将として戦っていたこと、敗北的な人生も、仏に委ねたいと思ったのではないか。
平泉にその痕跡があることも、ひとつの要因であると考えるのです。
東北の熊野信仰のひとつとして、知るべきみちのくの熊野です。
有力な瀬戸内海の河野水軍であったとすれば。
一遍聖絵に記録された祖父の墳墓
一遍の祖父、河野通信(かわのみちのぶ)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての伊予国の武将。
河野通清の子。
伊予水軍の将。
一遍の祖父にあたる。
そんな力のあった水軍の将が、なぜか、
平泉の近く国見山の廃寺のそばに墓がありました。
一遍の聖絵に
「奥州江刺郡にいたりて祖父通信が
墳墓をたつね給に~」とあり、
一遍が記録した絵図とそっくりな円形、
(田の側の崖、掘りや上円下方塚などが同形)
である墳墓が、岩手県北上市稲瀬町に国見山廃寺史跡の
極楽寺の先代の住職の発見により確定されました。
国見山極楽寺で貞応2年(1223年)に死去(享年68)
なぜ、ここに一遍の祖父がいたのでしょうか?
「通信は承久3年(1221年)の承久の乱で後鳥羽上皇方につくが、
朝廷方が敗北すると通政と共に領地へ戻り、高縄山城に籠もって反抗を続けた。しかし翌年に幕府方に居城を攻められ降伏。
捕虜となって陸奥国江刺に流罪となり、通政は斬られ、所領の多くは没収された。」(wikipedia)
平泉の前身「国見山」
国見山廃寺跡は、岩手県北上市稲瀬町内門岡地区にある古代山岳寺院跡で、
北上山地西緑部の一つである国見山南麓に位置する。
今でも内門岡地区には僧坊を連想させる地名が多く残っており、
伝承によれば、700を超える堂塔、36の僧坊をもつ大寺院でした。
年代は9世紀頃から12世紀頃の平安時代とみられ、
平泉が栄える200年も前から北上盆地における仏教の中心地でした。
また、国見山は薬草を多く栽培しており、
今でいう福祉センターのようなものであったと言われます。
平泉は、罪人を受け入れる位置づけとしてあり、
上円下方墳は、周辺ではみられない人物、家系の証とも。
河野氏一族は、承久の乱により没落し、一遍の父は出家したと。
そのことがあり、一遍も仏門を目指し最北の遊行が祖父の墓を
たずねることにあったのではないでしょうか。
熊野も承久の乱で上皇側についていた為、熊野信者の多くも荘園の没収など衰退したわけです。
承久の乱後の熊野古道も荒れ果て、荒廃していったと言われます。
そのような熊野と同じ境遇ということもあり、国見山が選ばれたことは、
平泉と熊野が深い関係にあったことも示しているものです。
そのような敗北の歴史を受け入れた熊野信仰は、紀州ではない名取の地で、浄土をもたらす「よみがえり」信仰を生み出したのです。