なぜモディ首相はチャンドラ・ボースを再評価しているのか?(解説記事)
「そもそもチャンドラ・ボースって誰?」って人向けに簡単な説明
時は第二次大戦中、チャンドラ・ボースというインド人が祖国独立のため活動していました。
彼は日本軍に協力してインド国民軍という軍をインド人で組織し、イギリスに支配されたインドの独立を目指し戦っていました。
そのインド国民軍もインパール作戦で日本軍とともに半壊し、デリーへの進軍の夢は破れ、最終的には台湾での飛行機事故で死亡という結末を迎えることになります。
細かい経歴に関してはこの記事の主題では無いので詳しくはWikipedia(誤情報もあるので参考程度に)なり、書籍なりで調べてもらえればと思います。
ここでボースに関して押さえていただきたい経歴としては
という点が挙げられます。
そして、ボース死後の影響(再評価の開始以前)という面では、
という点を押さえておいていただきたいです。
ボース生存説について補足
さいごの黒ポチのボース生存説については話が少し込み入ってるので補足しておきます。
まず、そもそもボース生存説がどのような人々によって主張されているのかというと、熱烈なボース信奉者やボースの元関係者なことがほとんどです。熱烈なボース信奉者にとっては、当然ボースには事故死なんかせずにその後も生きていてもらいたいですよね。どうしてもそう思ってしまうのは大戦直後の人々も、数十年後の人々も、今の人々も同じです。
例えが200年古いかもしれませんが、日本で言うところの義経伝説のようなものです。
特に戦争直後は情報が錯綜していた上に、ボースには戦前から何度か失踪していた前例もありました。(インドを脱出してドイツに向かった際なんかは有名ですね)
そんな状況なので、「ソ連に渡って厚遇されてるor強制収容所に入れられてる」だとか「ヒンドゥー教の修行僧、"グムナミ・ババ"として暮らしてる」だとかそんな伝説が生まれたのです。
残りの経緯(3度の調査委員会)に関してはボースのWikipedia記事を読んで欲しいのですが、その経緯からこの問題は
国民会議(事故死派)vs反国民会議(生存説派)
の政治的問題にもなっている点に特に留意して欲しいです。
また、この問題が、杉並区の蓮光寺にあるボースの遺骨が未だにインドに返還されていない理由になっています。つまり、
遺骨返還派(事故死派) vs 他人の「遺骨」返還反対派(生存説派)
の構図になっているのです。
もう一点付け加えると、ボースのWikipedia記事だとあたかもこの問題は2017年に解決したかのように思ってしまう方もいるかと思いますが、政府の立場と関係なく今もボース事故死への否定説は根強く支持されています。
そんなチャンドラ・ボースですが、なんと今絶賛再評価中だったりします。
モディ政権になってからチャンドラ・ボースの再評価が盛んだという話
今までのボース評価
これまでのボースは、一応独立の英雄扱いではあったものの、その来歴から与党の国民会議としては扱いに困る人物でマイナーな存在止まりでした。
そのため、地元西ベンガル州内での地域的な英雄としての顕彰か、
あるいは、社会主義者による顕彰がほとんどでした。
それらを除けば、インパールのインド国民軍戦争博物館とシンガポールのインド国民軍記念碑、あとは稀に発行された記念切手や記念硬貨くらいでしか公式に扱われてませんでした。
なので、1999年に公開されたインド国民軍についてのドキュメンタリー映画のタイトルは『忘れられた軍隊』でしたし、ボースを描いた2005年の映画は『ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース:忘れられた英雄』というタイトルになっています。
また、2014年1月(モディ政権誕生直前)にインド国会議事堂のボース肖像画の前で行われたボース誕生日記念式典に参加した現職議員は、775人の国会議員のうち、インド人民党所属のラール・クリシュナ・アードヴァーニー議員たったひとりだけでした。
しかし、そんな状況はモディ首相率いるインド人民党政権の誕生と共に一変します。
2009年
2009年、モディ氏がグジャラート州首相を務めていた時から、同氏は既にボースに関心を寄せていたようです。
グジャラート州はボース愛が強い土地柄ではないにもかかわらず、2009年のボース誕生日にグジャラート州のハリプラ(ボースがインド国民会議議長に選出された町)でのボース記念式典に参加し、1938年にボースが歩いた道と同じコースを歩む記念行列に参加したりしていました。
2012年
そして、2012年からは、今に至るまで、モディ氏は1月23日のボースの誕生日をTwitter上で毎年欠かさずに祝っています。
また、同年モディ氏はインド国民軍の創設記念日の記念行事に州首相として出席し、ボースを讃えていました。
https://www.narendramodi.in/cm-and-p-a-sangma-celebrate-azad-hind-fauz-foundation-day-4580
2013年
2013年には「ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース日印機構」という組織を設立したバラサヘブ・デシュムクという人物がモディ州首相に手紙を書き、それに返信する形でモディ氏はデシュムク氏の活動への感謝とボースの墓がある蓮光寺の望月住職への賞賛の意を示しています。
ちなみに、このことからモディ氏自身はボースが事故死したと信じている側だということがわかります。
2014年
そして運命の2014年、この年にモディ氏は選挙で勝利、インドの首相に就任したのですが、同氏は選挙運動においてもボースとインド国民軍を讃えていました。
下の動画では選挙戦中にインド国民軍の元兵士に会い、非常に丁寧なインド式挨拶を行なっています。
また、モディ首相が首相就任後初来日した際には、日印協会の故三角佐一郎氏と目線の高さを合わせ、手をとり挨拶する様子が撮られています。三角佐一郎氏は日印協会で非常に長く勤め、戦中にはボースとも親交があったそうなので、そのことがモディ首相の琴線に触れたようです。
2015年
2015年には、モディ首相がシンガポールのインド国民軍記念碑を訪問して、現地のインド国民軍兵士の家族たちに会っています。
また、この年にはモディ首相が三回もボース子孫と面会し、ボースにまつわるインド政府の機密ファイルの公開を約束しました。
上述したボース事故死にまつわる伝説への対応ですね。
2016年
そして、2016年のボース誕生日に、約束通りボースにまつわる機密ファイルの第一弾が公開されました。
その後も、同年中は何度かに分けてインド政府の保有する全てのボース関連機密資料(合計304件)の公開を進めていったのですが、目新しい重要情報はありませんでした。
2017年
ボース生誕120周年の2017年のボース誕生日には、モディ首相が国会のボース肖像画の前で追悼を行いました。
たった一人の議員しか参加しなかった2014年とは大違いですね。
(ちなみに、モディ首相の次に献花しているのが、2014年に唯一出席したラール・クリシュナ・アードヴァーニー議員)
また、この年にはコーヴィンド大統領がインパールにあるインド国民軍博物館やコルカタのネタジ・バワン(ボース旧家の記念館)を訪問しています。
2018年
2018年は、1943年から75周年となるためそれに関連して顕彰が多く行われました。
まず、1943年10月の自由インド仮政府樹立から75周年を記念して、モディ政権はデリーの「赤い城」という戦後インド国民軍の裁判が行われた場所で記念式典を行なっています。
(同城はインド国民軍の行進曲『進め進め前へ』の中にも「赤い城の上に旗を掲げ、翻らせよ、翻らせよ」という歌詞として出てきます)
同式典に参加したモディ首相は、インド国民軍の帽子を被り、インド国民軍の元軍人とともにステージに上がってスピーチをしています。
そして12月には、1943年12月30日のボースのアンダマン諸島訪問から75周年を記念して、モディ首相がアンダマン諸島を訪れました。
このときに、モディ政権は同諸島にある
・ロス島(ボースが訪問した島)を「ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース島」
・ニール島を「シャヒード島」(インド仮政府期のアンダマン諸島の呼び名)
・ハブロック島を「スワラージ島」(同ニコバル諸島の呼び名)
と改称しています。
それに合わせてか、アンダマン・ニコバル軍管区の主導で、同諸島にボースの記念碑も新たに設置されています。
同年12月には、コーヴィンド大統領のミャンマー訪問の際に、現地の元インド国民軍兵士9人との面会も行われました。
2019年
2019年のボース誕生日には、デリーの「赤い城」にモディ政権が「スバス・チャンドラ・ボース博物館」というボースとインド国民軍についての博物館を開館しました。
その3日後の共和国記念日という記念日の重要な軍事パレードでは、元インド国民軍兵士4人が初めて招待されました。
また、11月にはラージナート・シン国防大臣がシンガポールのインド国民軍記念碑を訪れて、インド国民軍元兵士に会ったりもしています。
2020年
2020年のボース誕生日、再びモディ首相が国会でボースを偲びました。
そして同年、西ベンガル州与党の全インド草の根会議派はこれまで西ベンガル州周辺でのみ祝日だったボースの誕生日を国民の祝日にすることをモディ政権に要求しました。
2019年にはこれに先立って、全インド前進ブロックも国民の祝日化を要求しています。
2021年
それを受けて翌年の2021年に、モディ政権はボースの誕生日を「勇気の日」として毎年政府で祝われる日としました。(ただし国民の祝日にはならず)
ただし、この決定に対しては全インド草の根会議派や全インド前進同盟、ボースの子孫の一部は「祝日として呼ぶべき名前が違う」として反発しています。
何はともあれ、ボースの誕生日が政府の記念日になったので、この年以降はモディ政権はボース誕生日を特に盛大に祝っています。
2021年の最初の「勇気の日」は、モディ首相は西ベンガル州のコルカタまで赴いてボースの生誕記念式典を行いました。
下の動画では、インド国民軍の格好をした少年少女がインド国民軍の行進曲『進め進め前へ』を歌ったり、次いで歌手が"SubhashJi"『スバスさん』というボースのシンガポール到着時に作られた歓迎曲を歌ったりしています。
(ちなみに、個人的な感覚ではインド軍の中で『進め進め前へ』が演奏される頻度も近年上がってきているような気がします)
さらに、記念式典に合わせて、その会場となったヴィクトリア記念堂でボースに関する展覧会を実施しています。(23年現在も継続中?)
ヴィクトリア記念堂をボースにちなんだ名前に改名することも検討されていたようですが、ボースの子孫の一部の反対により流れています。
また、モディ首相は同日、コルカタのボース像を訪ね、ネタジ・バワン(ボース旧家の記念館)にも行ったようです。
同年のボース誕生日では、ボースがインド脱出の際に乗った「カルカ郵便列車」を「ネタジ急行」に改名することをピユシュ・ゴヤル鉄道大臣(当時)が発表したりもしました。
2022年
ボース生誕125周年である去年(2022年)も当然様々な動きがありました。
同年の一番大きな動きとしては、ボースの生誕125周年を記念してインド門に高さ 8.5 mのボースの像が設置、同像が公開されたことが挙げられます。
ボースの誕生日にホログラムでの像として公開され、9月に花崗岩製の像が置かれました。
ホログラム像が置かれた3日後の共和国記念日の軍事パレードでは、同パレード名物の山車にボース像とインド国民軍像の姿も見られました。
さらに同月、マディヤ・プラデーシュ州にあるボースが一時期収監されていた刑務所が州政府(インド人民党)によって博物館になったようです。
4月には、オム・ビルラ下院議長がシンガポールのインド国民軍記念碑を訪れ、
8月には、アミット・シャー内務大臣がオリッサ州のボース生家を訪問しています。
また、マニプール州政府(インド人民党)の主導でインパールに残るインド国民軍司令部跡(インド国民軍博物館とはまた別)が再整備され、10月に完成して博物館として公開されました。
翌月11月には、インパールを訪問したスブラマニヤム・ジャイシャンカル外務大臣が整備されたばかりのインド国民軍司令部跡を見学しました。
また、同月には、ラージナート・シン国防大臣から「ボースはインドの初代首相だった」という旨の発言まで出てきています。
同年末にはモディ首相が地元グジャラート州のボース像に献花したりと、大盤振る舞いの一年でした。
その上、この年は文化面においても特筆すべき進歩がありました。
超大ヒット映画『RRR』のエンディングにあるご当地のインド独立英雄紹介コーナーで先陣を飾ったのです。これまでのインド社会でメガヒットした作品にボースが出てきた例はなかったのですが、同作はインド映画史上最高額の製作費・最大規模の公開規模・歴代興行成績第3位の映画であり、この規模の作品にちょこっとだけでも(だけどトップバッターとして)ボースが出てくるというのは大きな進展と言えるかもしれません。
(ただし、監督によれば「知名度の低い人物をあえて選んだ」そうなのでその点は考慮すべきなのですが、それでも選出基準には意図を感じてしまいます)
余談ですが、このコーナーで2番目に紹介されているパテール、ラスト(8番目)に紹介されているシヴァージーもモディ政権によって顕彰が進められている人物だったりします。
2023年
今年(2023年)のボース誕生日も大きく祝われました。
インド国会のボースの肖像画の前でボースを追悼したのはもちろんのこと、
モディ首相が、おなじみの帽子を被った若者と交流したりしたほか、
アンダマン諸島のネタジ・スバス・チャンドラ・ボース島(2018年に改称した島)に国立記念碑を建てる計画を発表し、同島への博物館やロープウェイの建設などそのモデルプランを公開しました。
同じく1月に、アミット・シャー内務大臣がインパールのインド国民軍司令部跡に訪れたりもしています。
先月(7月)にも、ラージナート・シン国防大臣が在マレーシアのインド国民軍元兵士の立ち合いのもと、同地でボースの胸像を除幕しました。
また、去年大統領に就任したドラウパディ・ムルム氏が、ネタジ・バワンやボース生家をそれぞれ今年3月と7月に訪れたりもしています。
以上の内容から、モディ政権誕生後は大規模なボース顕彰が毎年のように進んでいることが分かるかと思います。さらに言えば、ここ数年の再評価のペースは凄まじいものがあります。
最後に、インド門のボース像が公開された際に投稿された、ボース顕彰に関してのモディ政権の功績をアピールする動画を紹介しておきます。(言葉は分からなくても上に列記しててきた内容を紹介していることは伝わってくるかと思います)
なぜモディ政権はチャンドラ・ボースを再評価しているのか?(本題)
モディ政権によって目覚ましいほどに再評価が進んでいることはお分かりいただけたかなと思いますが、ここからはモディ政権が再評価を行なっている理由について書いていこうと思います。
1. そもそもの前提として、ボースが再評価に値する人物である点
ボースは戦前からインド独立に向け活動し、一時はインド国民会議の議長となり、大戦中はインド国民軍を結成してイギリスへの武力抵抗運動を率いたりと、様々な足跡を残しました。
戦後行われた元インド国民軍兵士への裁判には、国民会議をはじめとしたインド社会が激しく反発し、大規模な水兵反乱も起きました。
ネルーが初代インド首相に就任した後すぐに、赤い城において行われた演説でもボースについて言及されています。
また、生前のボースと強く対立していたガンディーも、ボースの死後に次のように述べています。
このように、ボースは再評価に値するほどの活動を行い、大戦直後は大きく評価されていたことが分かるかと思います。
にもかかわらず、国民会議主流派と意見が異なっていたボースは積極的に称えられる機会が減っていき、段々と忘れられてしまっていました。
今回の再評価は、この状況に対する揺り戻しであるとも考えられます。
しかし、「再評価すべき」なだけでは、実際に再評価が行われるとは限りません。
次の点からは、モディ政権にとっての政治的理由を見ていきます。
2. 右翼政権として武闘派な独立神話を必要としている点
この点は割とすぐに思い浮かびやすいのではないかと思います。モディ政権はパキスタン(カシミール紛争)や中国(中印国境紛争)、そして国内のムスリムに対して強硬姿勢を取り、ナショナリズムに基づいた強いリーダー像を確立しています。そんな状況下で、全インド人の模範となるべきインド独立のための戦いが、その実態はともかくとしても「非暴力」であったというのはいただけないでしょう。
その点、武力でイギリスに抵抗したボースはモディ氏の価値観とも合致し、理想的であるといえます。
3. ガンディーを顕彰しない独立神話を必要としている点
この点に関してはモディ首相の出身でありインド人民党の基礎を築いた組織、民族義勇団について知らなくてはいけません。
とはいえ、一から説明するのは面倒なのでまずは民族義勇団のWikipedia記事で概要を把握してもらおうかなと思います。
読んでいただけたでしょうか?
85年前にファシストを賞賛していた(後述)だけで今の民族義勇団をファシスト団体と断言する点など気になる点はいくつかありますが、大体の概要は把握できるかなと思います。
それで、「ガンディーを顕彰しない独立神話」という話に戻ると、この民族義勇団のメンバーであったナトラム・ゴドセがガンディーを暗殺したので、ガンディーを持ち上げすぎると民族義勇団やインド人民党に批判的な声となって跳ね返ってきますし、ガンディーをあまり持ち上げたくはありません。なので、インド人民党としてはガンディーを顕彰しない独立神話が必要となるのです。
ここで、「もしファシストに近かったとしても民族義勇団は戦前からある組織なんだし、自団体の独立への功績を顕彰すればいいじゃん」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
が、実は民族義勇団はイギリスに一切抵抗していません。ボースの武力的運動に加わらないどころか、国民会議の平和的抵抗にも参加しませんでした。では何をしていたかというと、民族義勇団の設立目的であるヒンドゥー国家の実現のために、宗教的活動や文化的な面からの活動を専ら行っていただけだったのです。
そうなった時に、ガンディーを顕彰しない、もう一つの独立神話として求められるのがボースとインド国民軍だというわけです。
4. 国民会議を顕彰しない独立神話を必要としている点
政治的観点から考えるならば、この点は非常に重要です。
政界におけるインド人民党の一番のライバルは国民会議だからです。国民会議はインド独立運動で大きな役割を果たし、インド独立後も非常に長い期間政権与党を務めてきました。そこに、ここ2,30年くらいで急伸してきたのがインド人民党なので、政敵である国民会議の功績は小さめに評価したいということになります。
さらに、国民会議の重要人物、ネルーの子孫であるガンディー一族は国民会議を率いてきた・率いているのでネルー周辺の人々を讃えることもインド人民党としては特に避けたい状況にあります。
この点でも、国民会議主流派と袂を分けたボースはうってつけなのです。
この点は再評価の理由を探る上でとても重要なので、2つほど事例を紹介しておきます。
2016年にボースの機密資料が公開された際に、インターネット上では「ネルーがボースを『戦犯』と呼んだ」という偽情報が広く出回っていました。
この噂がインド国民会議の象徴であるネルーを攻撃しようとしているのは明白で、反国民会議なインド人民党支持者の間で特に広まっていきました。
この事例では、「英雄ボース」と「裏切り者ネルー」という形で、両者が相反する存在として描かれているのが読み取れるかと思います。
また、昨日(8月10日)のモディ首相の発言も引用しておきましょう。
モディ首相は、「ガンディー王朝によって様々な指導者が毀損された」「ボースの肖像画が国会に置かれたのは国民会議が下野してからのことだった」と昨日の国会で発言しています。
この発言もまた、「自陣営ばかりを称える国民会議」と「英雄に正当な評価を行うインド人民党」という形になっているのがわかるかと思います。
5. 民族義勇団のイデオロギー的源流
民族義勇団の創設者であるヘードゲーワールや2代目指導者のM.S.ゴルウォーカーは第二次世界大戦の激化前はファシズムやナチズムを賞賛し、一種のロールモデルとして扱っていました。
団体の創設者が過去にそのような思想を持っていた以上、ファシズムへの忌避感は相対的に薄くなるということがまず想定できます。
ただし、民族義勇団が何らかの対枢軸接触、対枢軸協力をおこなったかといえば、先述した通り行なっていません。英国がインドを放棄した後も、ファシズムに再接近することはありませんでした。
そういう意味では源流はあくまでも源流であって、現在の民族義勇団はファシズムを主張しておらず、あくまでもただのヒンドゥー極右組織でしかないのです。「ネオナチ」云々に関しては何か思想的な影響があるわけではなく、レッテル貼りとしての用法以上の意味はないでしょう。
とはいえ、外から「ファシスト」「ナチス」と呼ばれ続ければ、他の「ファシスト」と呼ばれる人物に対して比較的に寛容、同情的になることもまたありえるのではないかと思われます。
6. 西ベンガル州周辺への選挙対策
西ベンガル州周辺でボースの人気が高いことはここまでの内容で分かっていただけたかと思いますが、モディ政権がその人気を利用したいと考えるのはある意味当然のことでしょう。
2021年に、モディ首相がわざわざ西ベンガル州のコルカタまで行ってイベントを行ったのは、単純に由緒ある地でボースを称えたいというだけでなく、同年4月に西ベンガル州で行われた西ベンガル州選挙への対策という側面も実はあったりします。
同州では、国民会議から分裂した「全インド草の根会議派」という政党(2020年にボースの誕生日の国民の祝日化を要求したのもこの政党)が近年非常に強く、インド人民党としては選挙に勝利して同党からの州政権の奪取を目指していました。
このため、モディ首相自身がコルカタへ赴いてボースを顕彰することで西ベンガル州の世論にアピールしようとしたのです。
ただし選挙の結果としては、インド人民党は大きく議席を伸ばしたものの、アピール虚しく草の根会議派が圧勝しています。
ただし、草の根会議派も(さらに言えば左翼戦線も)ボースの顕彰活動を行なっていて、両派はインド人民党に対して「西ベンガルの英雄ボースを私物化しようとしている」という形で批判をしているので、こと西ベンガルにおいてはインド人民党だけが顕彰しているわけでは決してないです。
なので、西ベンガルにおいては3派が「我々の党がボースの一番の継承者」と主張していて、ボースを政治的に取り合い争っている状況となります。
この事例のように、昔からの絶大な地域的人気も再評価に一役買っていると言えそうです。
7. 日本からの働きかけ
「日本はアジアを解放し、それによりアジアの人々から感謝されている」とする右派論壇の言説を聞いたことのある方も多いでしょう。
実際は全然そんなことはないのですが、安倍元総理はこの言説に影響を受け、インドでボースを讃えていました。
2007年、モディ政権誕生の7年前、当時は第一次安倍内閣の首相であった安倍氏はネタジ・バワン(ボースの旧家の記念館)を訪問し、「コルカタの空港が誇らしくも戴く名前の持ち主」ボースの子孫と面会しています。
そして、同じく2007年、モディ氏はグジャラート州首相だった当時から安倍総理との交流を始め、それからの両者は強い友好関係にありました。
安倍氏の国葬には現職の外国政府首脳があまり参加しなかったのですが、モディ首相は出席しています。
このような関係性から、安倍元総理の行動がきっかけとなって、インド側が日本へのアピールとして再評価を行なっているという側面も考えられます。
この種のアピールは大抵はその場限りで終わりなのですが、モディ氏の思想や利益とも合致することで公式に政府の政策として推進されていったものと思われます。
単純に日本側からその名前が出されるだけで、ボースを知るきっかけになったり、より強く印象に残ったりするというのもあるかもしれません。
さらに、安倍総理だけがボースにまつわる交流をしていたわけでは当然ありません。
民主党の松原仁議員が2008年にボースの子孫と面会していたり、ネタジ・バワンやネタジ研究所と日本側行政との交流が今も続いていたりと他の窓口でも交流があり、その効果もきっと出ていることでしょう。
http://jin-m.com/kiroku/2008/images/20080802/080802.pdf
詳細は下記の項で述べますが、アジア諸国では対日協力者は基本的に否定的に見られています。そんな中で日本の政治家が誇大宣伝ぎみな言説に基づいて行った言動は間接的にモディ政権に影響を与え、まさに「嘘から出たまこと」となったと言えるのではないかと思います。
以上、7点を概観してきましたが、これら全体から言えるのは、基本的にインド側はインド側の事情でボースの再評価を行なっているということです。
しかし、日印で歴史認識が一致する状態になったので、もし日本がその気になれば両国で共同してボースの顕彰活動ができる時代が来た、ともいえるのではないでしょうか。
ただし再評価には課題点も
さて、ここまで、モディ政権が再評価する理由を紹介してきましたが、当然再評価をする際の課題点もあります。
課題点1:インド以外でのボースの評価
一点目は、欧米では「ファシスト」のボースの評判はかなり悪い点です。
東アジアだけでなく欧米でも旧日本軍の評判は悪いですし、ナチスドイツの評価は…言うまでもないですよね。
良くも悪くもその両者に協力したのがボースという人物なので、世界中の「反ファシスト」さんからは厳しく非難されています。
ともすれば、ボースの再評価は、日本とインド以外のほとんどの国から悪印象を持たれてしまわれかねない悪材料にもなってしまいます。
さらに、これは将来的な仮定の話になるのですが、英文に比較的アクセスしやすいインド人がもしそちら側の史観に触れてしまったら悪い影響が出るかもしれません。
下の例では、米民主党のオカシオ・コルテス議員の第一秘書(インド系)がボースTシャツを着たことがサイモン・ヴィーゼンタール・センターに批判され、この一ヶ月後に秘書を辞任しています。
課題点2:ボースと民族義勇団の思想的差異
二点目は、チャンドラ・ボースと民族義勇団の思想は方向性がかなり違い、両者は歴史上ほぼ無関係だった点です。
先述した通り、両者共にファシズムに接近した点は同じでした。
しかし、ボースは基本的には社会主義政治家であって、戦前戦後と二回ソ連に向かおうとしています。そして、ヒンドゥー教徒だけでなくムスリムやシク教徒も平等に扱い、全宗教での統一インドを目指していました。
それに対して、民族義勇団はヒンドゥー教徒だけのヒンドゥー教徒のための国作りを目指し、イギリスに抵抗することよりも反ムスリムや反社会主義を強く優先しました。
どちらも「ファシスト」と呼ばれていても、両者の思想はほとんど相容れないものだったことがわかるかと思います。
一応、ボースは民族義勇団に影響を与えたヒンドゥー大会議という組織に接触しようと試みたこともあるようですが、同時に全インドムスリム連盟にも接触してバランスを取っていました。
そして、第二次世界大戦の開戦後は、イギリスに協力するヒンドゥー大連盟やムスリム連盟の両者に対しても批判を行っていました。
当然この観点で、「インド人民党が偉大なネタジを盗用しようとしている」と、インド国内のモディ政権に批判的なメディアや野党などから批判されています。
今年(2023年)のボースの誕生日に民族義勇団主催の記念行事がコルカタで開催されたのですが、やはりこの点から強く批判されていました。
しかし、その行事において民族義勇団側からこの批判に対する反論が出されていたりと、この問題は今特にホットな話題だったりします。
この二点に関しては解決のしようがない問題なので、再評価を続けるためには上手いこと誤魔化し続けるしかないでしょう。
この状況をどのように捉えるべきか?
アジアにおいては初かも?
親枢軸国派と見做されてきた人物の活動を民族独立への第一歩として再評価する動きはインド以外にも見られる現象です。
欧州においては、ウクライナにおけるウクライナ蜂起軍の復権に代表されるように、冷戦終結後の民族主義の高まりに応じて政府レベルでも再評価されることが時々あります。
しかし、本邦右派論壇での論調と異なって、アジアにおける対日協力者への再評価はあまり進んでいません。
反日本軍をその独立神話としている東アジアの国々は勿論のこと、東南アジアの国々でも政府レベルでの肯定的な評価はほとんどみられません。
インドネシア(スカルノやスハルト)やミャンマー(アウンサン)は例外ですが、彼らは日本軍降伏後に「自力で」独立したことが評価されています。
その点、他の対日協力者と違って大戦後すぐに飛行機事故で死去してしまい、日本に敵対あるいは批判をしなかったチャンドラ・ボースは対日協力の記憶と特に強く結びつきうる人物と言えます。
にもかかわらず、モディ政権がチャンドラ・ボースを再評価しているという状況は、今までもあったようで実は無かった、特殊で大きな一歩なのです。
ビハーリー・ボースも再評価され始めてる!?
この現象を捉える上でもう一つ指摘しておくべく点があるとすれば、もう一人のボース、ラース・ビハーリー・ボースの再評価も始まっていることが挙げられます。
チャンドラ・ボースに関しては大戦前からの影響力の大きさもあり、死後も一定の規模で顕彰されてきました。しかし、ビハーリー・ボースは日本に活動の軸を置いていたことやインド国民軍への影響力が小さかったことも災いして、顕彰活動はほとんど進んでいませんでした。
しかし、2016年、当時エネルギー関連の大臣だったピユシュ・ゴヤル議員(現在は商工大臣)がビハーリー・ボースの生誕地を訪れたり、
去年5月のビハーリー・ボース誕生日にインド情報放送省がビハーリー・ボースの功績を紹介する動画を作ったり、
同年6月には、個人の手作り感がすごいラース・ビハーリー・ボース研究所にインド人民党総裁がなぜか訪問して、ビハーリー・ボースを顕彰したり、
今年5月のビハーリー・ボースの誕生日に、アナンダ・ボース西ベンガル州知事(中央政府=モディ政権によって任命される州名誉職)がやはりラース・ビハーリー・ボース研究所を訪問していたりと、再評価への第一歩が踏み出されているように思えます。
ラース・ビハーリー・ボース研究所は、全然検索に出てこない上、明らかに個人の熱意だけで成り立ってるのに、インド人民党総裁が急に来ていて本当に謎です。(ビハーリー・ボースを顕彰することを既に決めた上で探し出した可能性?)
余談ですが、去年のインド人民党総裁の訪問も草の根会議派からは「ビハーリー・ボースへの敬意が払われていない」と批判されていたりします。(草の根会議派側も2018年頃から毎年ビハーリー・ボースを称賛しています)
インド国民軍全体への再評価が進んでいる以上、ビハーリー・ボースの名前が挙がるのも時間の問題だったとはいえ、かなりマイナーな存在だったビハーリー・ボースがここまでクローズアップされ始めている現況には日本側の言動による影響を感じざるを得ません。
または、ビハーリー・ボースは1938年にヒンドゥー大会議の日本支部を設立している(開戦後に関係消滅)ので、その点からインド人民党としても触れやすい人物だからなのかもしれません。
下記のリンクの『独立印度の黎明』という本にはビハーリー・ボースによるヒンドゥー大会議の総裁サーバルカルを讃える文章が載っています。
そして、モディ政権はヒンドゥー・ナショナリズムの先駆者として、サーバルカルを今まさに讃えているのです。
今年完成したインドの新国会議事堂の落成式が、サーバルカルの生誕日に合わせられたほどです。
ビハーリー・ボースがサーバルカルに好意的だったことをインド人民党側が知っているかどうかは分かりませんが、これも理由の一つになるのかもしれません。
とはいえ、日本との関わりが特に深いビハーリー・ボースの再評価も進んでくれれば、日印友好に大いに役立つでしょう。どんどん進めていくべきです。
気になる方もいると思うので言及しておくと、両ボース以上に日本では名前が挙がることの多いパール判事に関しては、その功績がインド独立云々というものではないので日印友好の文脈でしか言及されていません。これに関しては仕方ないですね。
日本への影響に関して
これまであくまで「敗戦国」として対日協力者たちの存在をアジア諸国との二国間関係に有効に活用することが中々できなかった日本ですが、向こうの側から再評価の動きがあるという状況はチャンスであると言えます。
さらに重要なのが、その相手はあのインドであるという点です。人口は既に中国を抜いて世界一位、これからの世界の工場の役割を担い、将来的には巨大市場となりうる国と、対中共のQUAD構想を進めていく上で一番のキーとなるインドと、歴史問題による摩擦無しで付き合っていけるかもしれないのです。
もちろん、この流れを維持するためには、完全に向こう頼みになっていてはいけません。安倍総理が居なくなったことで生まれた大きな穴を埋め合わせることができるかどうかが一つの鍵になってくるでしょう。
下の2つの動画はごく最近、今年の7月にどちらも自民党の議員がアップしたものですが、チャンドラ・ボースに関する話題が双方の動画で出されています。
議員外交のレベルで今も働きかけが続けられていることは、大いに評価できることだと思います。
さらに、ここでは詳しくは触れませんが、議員だけでなく民間レベルでのボース顕彰も行われています。一人一人の力は大きくなくても、きっと再評価への力となってくれることでしょう。
ただし、ボースの話題でインド人と接する上で一つ気をつけるべき点があります。ボースは「日本軍のため戦った英雄」ではなく「インド独立のため戦った英雄」であるということです。親日感情の発露ではなく、愛国的感情の発露としてボースは称賛されているのです。
かつてボース達は日本に助力してくれました。ことボースに関しては、何よりも「ボースへの恩返し」を言動の基軸とすべきです。ボースを称えられる国は日本とインドだけなのです。
ボースと国民軍の遺産を日印友好へと繋げていきましょう。
怒りの意見広告を海外の新聞に出して自己満足の歴史戦をするよりも、より効果的で、より求められる歴史外交があるはずです。
追記:来週(8月18日)はボースの命日です。インドの英雄を偲びましょう。