「気にしない」を気にしない為に必要な幾つかのこと。
ピンと来ないのピンって何?
「気にしない気にしない、一休み一休み」と昔のアニメで見た覚えがある。
一休みの間に何か変化があるのかな?などと思ったりして画面を食い入る様に次の展開を待っているような子どもだった自分。
「気にするな」と言われても実際はそう簡単にはいかない。
気にしない為にはどうすればいい?
その幾つかのことの1つは「知る」ことなのだろうなと思う。
「ああそういうことか」と言う気づきの積み重ねが、何かの気掛かりや心配事を少しずつ減らしてくれる。
頭では理解できてるんだけど、ピンと来ない時のピンって「!」のこと?
だとしたらそれはきっと気づくことの「!」かもしれない。
知ることの中身は、経験だったり情報だったりする。
ただ知っている状態から、体験してそれを自分のものとしてインストールしてアップグレードしていくのは、地道だけど効果を感じられる方法の一つだ。
その中から自分に必要なものが選択できるようになり、少しずつ気持ちが前進するのだろうなと感じる。
知ることと気づきの連続。
マルチプレイが当たり前のようにそこにある時代になって、フレンドさんを見ていてそう感じたという話。
誘ったFPSで「予習してないんですが…」。
子どもの頃、運よく知人からMSXを貰って以来、ずっとゲームを楽しんできた。昔は友人と集まることでゲームの楽しさを共有していたが、今はインターネットの恩恵で、友人と集まらずとも自宅でそれが可能になったのは常識の様に知られている。
友人知人以外の不特定多数と組んで遊ぶことも可能だ。
それ故の悩みを抱える人も多いようだ。
ゲームプレイが未熟で味方の足を引っ張るのが申し訳ない。
見も知らぬ他人に突然指摘され指示が飛んでくる。
予習や練習をしてから来いと詰られる。
その言葉が気になって、ゲームを楽しめないままに「自分には向いていない」「ハマれなかった」と辞めていくようだ。
以前の記事でも触れたが、そういう類の悩みを抱えているフレンドさんがいる。METAL GEAR SOLIDやMMORPGのFFXIVが縁で知り合ったが、お互いのゲーム履歴は全く違っていた。
私はディアブロやウルティマがリリースされた頃からオンラインでRPGを遊んでいたし、近年はFPSに執心している。
片やフレンドさんはFFXIVが初めてのオンラインマルチプレイで、しかも多人数同時参加型だ。
オンラインゲームの勝手がわからず、チュートリアルで説明されているのにデジョンやテレポ(※1)に半年気づかなかった、と聞いた。
※1 使用することで素早く目的地に移動できる便利な機能。スキル。
不慣れなコンテンツでは突然指示が飛んできて、できなければ練習してこいと頭ごなし。コンテンツに参加するのが恐ろしい、などと言う。
自分なりに楽しみ方を見つけようにも、それ以前にゲームが進まない状態。
実際は、他人のプレイスタイルに口出しする輩は一握りなのだろうが、FFXIVリリースから暫くはそういう輩も多く、辟易して辞める人がかなりの数いたようだ。(あちこち読み歩いた感じでは)
フレンドさんのそんな話を聞き、口出しする他人が理由で気に入ったゲームを諦めて欲しくない、何か私にできることはないか?と考えた。
そうだ、他のゲームもやろう。
一緒にできそうなマルチプレイゲームに折を見て誘ってみた。
私が知る限りでは、アレコレ口煩く絡んでくるプレイヤーはFFXIVでしか会ったことがなかったからだ。
最初に誘ったCoD BO3ではそのフレンドさんに
「このマップ予習してないんですが、いいんですかね行っても…」
と言われた。
「いいに決まってますよ(笑)」
とつい笑ってしまって気づいた。
自分が周囲から指摘され続けたFFXIVでのやり方が、即ち全マルチプレイタイトルの遊び方だと思い込んでしまっているのだ。
そうじゃないよ、と一言声を掛けてくれる人に残念にも偶然出会わなかったのだ。
それからも色々誘ってみた。
メタルギアソリッド・オンラインをやってみたり。
こちらでは定型文を使って素早いコミュニケーションが取れる。皆デフォルト設定で声が大塚明夫さんだったのが楽しかった。スネークだらけだった。
Call of Duty Modren Warfareでイースターエッグを一緒に探したり。
キャンペーン(物語)モードが秀逸で、まるで映画の中にいる様な臨場感と緊張感に最後の結末は衝撃的で、大いに盛り上がった。
フレンドさん、MWではスナイパーに目覚めて目下練習中。
楽しんで頂けて何よりだ。
最近ではCoDの新作Cold Warのαテストも一緒にやってみた。
一つのタイトルが一つの世界のように。
そのフレンドさんを昨年modern warfareを始めるタイミングで、私の現実のフレンドにも紹介した。今は皆でパーティを組み走り回ったりも頻繁にしている。
私のフレンドには幸い、初心者相手にウンチクを披露したりマウントを取る人はいない。頼んでもいないアドバイスや一方的な指示をする人もいない。
こちらのフレンドも「最初はなかなか喋ってくれなかったけど、最近オレたちにも話をしてくれるようになってよかった」と話してくれた。
当然だろうけど、遊ぶタイトル毎に少しずつ違ったプレイスタイルのプレイヤーが集まっているように感じる。
好みで選ばれるゲームの事、当たり前と言えば当たり前だ。
似たものが共感を求めて自然と集まるのが見えるのも、今の世界のいいところであり、憂慮することかもしれない。
どのタイトルにも距離感が掴めない攻撃的なプレイヤーは存在するが、その全てが攻撃してくる訳ではないことを、フレンドさんには体験で知って欲しかった。
それぞれのタイトルでシステムが違うので、目的達成の為に取るコミュニケーションの手段や傾向は違っているのだが、それは体験しなければわからない。
最近は「なんであんなに悩んでいたんだろう」と自分を振り返る発言をポツリと言う場面もあったフレンドさん。
そんなことやってみないとわからないの?と思う人も多いだろうが、どうだろう?
見知らぬ土地に住み始めた当初に、近所の人が頼みもしないのに突然この地域の習慣はね…なんて言われたら困惑するだろう。そんなことが頻繁に起きていたとしたら。
それがわかっただけでも収穫と言える。
実体験の中で気づきとして知識や情報を得れば、本当の意味で自分のものになるのだと思う。それが経験と呼ばれているのを再確認する。
経験論者じゃない、けれど。
全て実際に経験しなければならないって訳じゃないと、私は思う。
だけどその経験は、誰かに強要されるものではなく、自分で選び取るのが望ましい。
選ぶ中で、気づきがあるのだと思う。
知ることで気になるモノの中身や正体を知れば、本当の意味で気にする必要がなくなる。
無かったこととする無視やスルーでは、同じ場面でまた同じことを繰り返す。気掛かりのループにハマってしまう。
多少面倒でも、そいつの正体を知ることは意味がある。
他にも気づきの場面は沢山あった様子で、それはまた後日に記していきたい。
(2020年10月13日、誤字脱字加筆修正。)
尚、ヘッダーのお坊さんは周防正行監督の1989年公開映画「ファンシイダンス」を参考に描きました。