表現の自由と法の下の平等について

始めに


先日来の表現の自由勢と男女平等勢の議論の最中、このようなツイートをしたら結構な反応を頂いた。
まず前提として、私は表現規制反対派であると自認している。少なくとも、現行の都条例のクソガバ基準や青少年保護育成条例の表現規制、「猥褻」の定義が曖昧な刑法175条には反対し続けているからだ(過去ツイートを掘ってもらっても構わない)。

だが、反対の程度がどの程度かと言われると、今は正直言って最低限のゾーニングは必要であろうと考えている。
私自身が、小さな頃にリングを見てビビリ散らかしていたような子供だったのもあるだろうが、そういった子供に故意にではないにしろ直接的なエログロ画像を見せるのが適当だとは思えない。
だが、それ自体は書店等の販売店が置き場を配慮すれば済む話ではある。


茨城県におけるゾーニングの一例
茨城県におけるゾーニングの一例(2)

拾い物画像で恐縮だが、これは茨城県における有害図書の書籍配置の例である。
私の出身は愛媛県だが、当県でもこれと似た配置が行われている。
例を挙げれば、レジから目の届くところに並列区分と同等の手法で置かれていたりとか、四コマ漫画コーナーの一番高い棚がエロ漫画コーナーであったりだとか(高位区分)だ。
主に2県しか例を知らないので他県の例があれば教えて欲しいのだが、これを見るに一口にゾーニングと言っても色々な例がある事がわかる。
かつて存在したコンビニエロ本だって、この図で言えば「並列区分」に該当していたはずである。
「腐女子は暖簾の先に行きたがらない」との批判を見掛けるが、別に暖簾はなくても構わないのだ。

さて、タイトルの表現の自由と法の下の平等がどう干渉し合っているかだが、前提として現在の都の審議会で不健全図書に指定されるBLの割合が年々高まっている事柄がある。

都条例の問題点については、色々な方が論じているので今更語る必要もないだろう。必要前提情報として話を進める。

と、ここで表現の自由勢が「BLを規制から守ろう」と言い出した。
確かに「表現の自由」を第一に掲げるならこれは妥当な立ち位置である。
だが一方で、これは「これまで見逃されていたBLが男性向けレーベルと同じ基準適用をされるようになった」との見方もできる為、この現状は「法の下の平等」が達成されているのではないかとも受け取れる。

ここで「表現の自由を重視してBLを規制から守る」となるか「法の下の平等が達成されているので、BLも男性向けも同等の基準になるべきだ」となるかで二分化してしまう事になる。
なぜ後者が「男性向け全てを一般化しよう」とならないかについてだが、一言で言って世論の支持が得られないからである。
どこぞのネ〇ジオン総帥ではないが、「だったら今すぐ世論の支持を取り付けてみせろ」といったところだ。
また、現状の表現規制についても、岐阜県青少年保護育成条例事件(https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/356/050356_hanrei.pdf)という判例で肯定されており、最低でもこの判例をひっくり返す事が要求される。
フェミによる表現焼き畑農業に慣れ親しんでしまった諸君は忘れてしまったかもしれないが、日本は法治主義・前例主義を採用している為、判例というのは非常に重い意味を持つ。
特に先の岐阜県青少年保護育成条例事件は最高裁判決である。どこぞのボンクラ地裁が出した頭の悪い判決ではないのだ。相当のロジックが要求されるのは想像に難くないだろう。
まず、青少年の保護と表現の自由の関わり合いを見ていく。
あくまで、私個人の法解釈なのでこれが正しいとは限らない事はあらかじめ言っておく。

岐阜県青少年保護育成条例事件判例

1

 一 本件条例と憲法二一条
 (一) 本件条例によれば、六条一項により有害図書として指定を受けた図書、同条二項により指定を受けた内容を有する図書は、青少年に供覧、販売、貸付等をしてはならないとされており(六条の二)、これは明らかに青少年の知る自由を制限するものである。当裁判所は、国民の知る自由の保障が憲法二一条一項の規定の趣旨・目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであるとしている(最高裁昭和六三年(オ)第四三六号平成元年三月八日大法廷判決・民集四三巻二号八九頁参照)。そして、青少年もまた憲法上知る自由を享有していることはいうまでもない。
 青少年の享有する知る自由を考える場合に、一方では、青少年はその人格の形成期であるだけに偏りのない知識や情報に広く接することによって精神的成長をとげることができるところから、その知る自由の保障の必要性は高いのであり、そのために青少年を保護する親権者その他の者の配慮のみでなく、青少年向けの図書利用施設の整備などのような政策的考慮が望まれるのであるが、他方において、その自由の憲法的保障という角度からみるときには、その保障の程度が成人の場合に比較して低いといわざるをえないのである。すなわち、知る自由の保障は、提供される知識や情報を自ら選別してそのうちから自らの人格形成に資するものを取得していく能力が前提とされている。青少年は、一般的にみて、精神的に未熟であって、右の選別能力を十全には有しておらず、その受ける知識や情報の影響をうけることが大きいとみられるから、成人と同等の知る自由を保障される前提を欠くものであり、したがつて青少年のもつ知る自由は一定の制約をうけ、その制約を通じて青少年の精神的未熟さに由来する害悪から保護される必要があるといわねばならない。もとよりこの保護を行うのは、第一次的には親権者その他青少年の保護に当たる者の任務であるが、それが十分に機能しない場合も少なくないから、公的な立場からその保護のために関与が行われることも認めねばならないと思われる。本件条例もその一つの方法と考えられる。このようにして、ある表現が受け手として青少年にむけられる場合には、成人に対する表現の規制の場合のように、その制約の憲法適合性について厳格な基準が適用されないものと解するのが相当である。そうであるとすれば、一般に優越する地位をもつ表現の自由を制約する法令について違憲かどうかを判断する基準とされる、その表現につき明白かつ現在の危険が存在しない限り制約を許されないとか、より制限的でない他の選びうる手段の存在するときは制約は
違憲となるなどの原則はそのまま適用されないし、表現に対する事前の規制は原則として許されないとか、規制を受ける表現の範囲が明確でなければならないという違憲判断の基準についても成人の場合とは異なり、多少とも緩和した形で適用されると考えられる。以上のような観点にたって、以下に論点を分けて考察してみよう。
 (二) 青少年保護のための有害図書の規制について、それを支持するための立法事実として、それが青少年非行を誘発するおそれがあるとか青少年の精神的成熟を害するおそれのあることがあげられるが、そのような事実について科学的証明がされていないといわれることが多い。たしかに青少年が有害図書に接することから、非行を生ずる明白かつ現在の危険があるといえないことはもとより、科学的にその関係が論証されているとはいえないかもしれない。しかし、青少年保護のための有害図書の規制が合憲であるためには、青少年非行などの害悪を生ずる相当の蓋然性のあることをもって足りると解してよいと思われる。もっとも、青少年の保護という立法目的が一般に是認され、規制の必要性が重視されているために、その規制の手段方法についても、容易に肯認される可能性があるが、もとより表現の自由の制限を伴うものである以上、安易に相当の蓋然性があると考えるべきでなく、必要限度をこえることは許されない。しかし、有害図書が青少年の非行を誘発したり、その他の害悪を生ずることの厳密な科学的証明を欠くからといって、その制約が直ちに知る自由への制限として違憲なものとなるとすることは相当でない。
 西ドイツ基本法五条二項の規定は、表現の自由、知る権利について、少年保護のための法律によって制限されることを明文で認めており、いわゆる「法律の留保」を承認していると解される。日本国憲法のもとでは、これと同日に論ずることはできないから、法令をもってする青少年保護のための表現の自由、知る自由の制約を直ちに合憲的な規制として承認することはできないが、現代における社会の共通の認識からみて、青少年保護のために有害図書に接する青少年の自由を制限することは、右にみた相当の蓋然性の要件をみたすものといってよいであろう。問題は、本件条例の採用する手段方法が憲法上許される必要な限度をこえるかどうかである。これについて以下の点が問題となろう。
 (三) すでにみたように本件条例による有害図書の規制は、表現の自由、知る自由を制限するものであるが、これが基本的に是認されるのは青少年の保護のための規制であるという特殊性に基づくといえる。もし成人を含めて知る自由を本件条例のような態様方法によって制限するとすれば、憲法上の厳格な判断基準が適用される結果違憲とされることを免れないと思われる。そして、たとえ青少年の知る自由を制限することを目的とするものであっても、その規制の実質的な効果が成人の知る自由を全く封殺するような場合には、同じような判断を受けざるをえないであろう。
 しかしながら、青少年の知る自由を制限する規制がかりに成人の知る自由を制約することがあつても、青少年の保護の目的からみて必要とされる規制に伴って当然に附随的に生ずる効果であつて、成人にはこの規制を受ける図書等を入手する方法が認められている場合には、その限度での成人の知る自由の制約もやむをえないものと考えられる。本件条例は書店における販売のみでなく自動販売機(以下「自販機」という。)による販売を規制し、本件条例六条二項によって有害図書として指定されたものは自販機への収納を禁止されるのであるから、成人が自販機によってこれらの図書を簡易に入手する便宜を奪われることになり、成人の知る自由に対するかなりきびしい制限であるということができるが、他の方法でこれらの図書に接する機会が全く閉ざされているとの立証はないし、成人に対しては、特定の態様による販売が事実上抑止されるにとどまるものであるから、有害図書とされるものが一般に価値がないか又は極めて乏しいことをあわせ考えるとき、成人の知る自由の制約とされることを理由に本件条例を違憲とするのは相当ではない。
 (四) 本件条例による規制が憲法二一条二項前段にいう「検閲」に当たるとすれば、その憲法上の禁止は絶対的なものであるから、当然に違憲ということになるが、それが「検閲」に当たらないことは、法廷意見の説示するとおりである。その引用する最高裁昭和五七年(行ツ)第一五六号同五九年一二月一二日大法廷判決(民集三八巻一二号一三〇八頁)によれば、憲法にいう「検閲」とは、「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解すべきである」ところ、本件条例の規制は、六条一項による個別的指定であっても、また同条二項による規則の定めるところによる指定(以下これを「包括指定」という。)であっても、すでに発表された図書を対象とするものであり、かりに指定をうけても、青少年はともかく、成人はこれを入手する途が開かれているのであるから、右のように定義された「検閲」に当たるということはできない。
 もっとも 憲法二一条二項前段の「検閲」の絶対的禁止の趣旨は、同条一項の表現の自由の保障の解釈に及ぼされるべきものであり、たとえ発表された後であっても、受け手に入手されるに先立ってその途を封ずる効果をもつ規制は、事前の抑制としてとらえられ、絶対的に禁止されるものではないとしても、その規制は厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許されるものといわなければならない(最高裁昭和五六年(オ)第六〇九号同六一年六月一一日大法廷判決・民集四〇巻四号八七二頁参照)。本件条例による規制は、個別的指定であると包括指定であるとをとわず、指定された後は、受け手の入手する途をかなり制限するものであり、事前抑制的な性格をもっている。しかし、それが受け手の知る自由を全面的に閉ざすものではなく、指定をうけた有害図書であっても販売の方法は残されていること、のちにみるように指定の判断基準が明確にされていること、規制の目的が青少年の保護にあることを考慮にいれるならば、その事前抑制的性格にもかかわらず、なお合憲のための要件をみたしているものと解される。
 (五) すでにみたように、本件条例は、有害図書の規制方式として包括指定方式をも定めている。この方式は、岐阜県青少年保護育成審議会(以下「審議会」という。)の審議を経て個別的に有害図書を指定することなく、条例とそのもとでの規則、告示により有害図書の基準を定め、これに該当するものを包括的に有害図書として規制を行うものである。一般に公正な機関の指定の手続を経ることにより、有害図書に当たるかどうかの判断を慎重にし妥当なものとするよう担保することが、有害図書の規制の許容されるための必要な要件とまではいえないが、それを合憲のものとする有力な一つの根拠とはいえる。包括指定方式は、この手続を欠くものである点で問題となりえよう。
 このような包括指定のやり方は、個別的に図書を審査することなく、概括的に有害図書として規制の網をかぶせるものであるから、検閲の一面をそなえていることは否定できないところである。しかし、この方式は、法廷意見の説示からもみられるように、自販機による販売を通じて青少年が容易に有害図書を入手できることから生ずる弊害を防止するための対応策として考えられたものであるが、青少年保護のための有害図書の規制を是認する以上は、自販機による有害図書の購入は、書店などでの購入と異なって心理的抑制が少なく、弊害が大きいこと、審議会の調査審議を経たうえでの個別的指定の方法によっては青少年が自販機を通じて入手することを防ぐことができないこと(例えばいわゆる「一夜本」のやり方がそれを示している。)からみて、包括指定による規制の必要性は高いといわなければならない。もとより必要度が高いことから直ちに表現の自由にとつてきびしい規制を合理的な
ものとすることはできないし、表現の自由に内在する制限として当然に許容されると速断することはできないけれども、他に選びうる手段をもっては有害図書を青少年が入手することを有効に抑止することができないのであるから、これをやむをえないものとして認めるほかはないであろう。私としては、つぎにみるように包括指定の基準が明確なものとされており、その指定の範囲が必要最少限度に抑えられている限り、成人の知る自由が封殺されていないことを前提にすれば、これを違憲と断定しえないものと考える。

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/356/050356_hanrei.pdf

非常に長いので要約する。
まずは(一)。

  • この条例は明らかに青少年の知る自由を制限するものである

  • 青少年の知る自由の保障の必要性は高いのだが、青少年は成人と比較して一般的に精神的に未熟である為、保障の程度は成人よりも下がり、青少年の精神的未熟さに由来する害悪から保護されなければならない。

  • その為、ある表現の受け手が青少年の場合は、成人に対する表現の自由の規制のような憲法適合性について厳格な基準は適用されない。

  • この場合、表現の自由を制約する法令の違憲基準について、本来の原則はそのまま適用されないし、成人の場合とは異なり多少緩和した形で適用される。

つまり、青少年は精神的に未熟な保護対象なので、法令が成人に向けられたものより違憲気味であっても、違憲かどうかの適用基準が成人より甘くなるという事である。
これは少年法と大体同じで、青少年には成人のような判断能力・責任能力がないとするのと似たような論理構成だ。
判例を覆すには、青少年の精神的未熟さと判断能力の低さを否定して、成人と同程度の権利保障を要求する必要がある。成人年齢の引き下げは適用年齢の引き下げを狙う上で追い風になるのではないかと考えるのだが、一方で性交同意年齢の引き上げ(≒精神的に未熟、判断能力がない)が議論されているので、これはむしろ逆効果なのではないか?とも考える。
青少年の精神的未熟さや判断能力の低さを否定するには、少年法の適用年齢の引き下げを要求し、性交同意年齢の引き上げには反対しなければ論が通らない。そんな気概はあるだろうか?

次に(二)に移る。

  • 青少年保護の為の有害図書規制について、非行を誘発するとか精神的成熟を害するとかの科学的証明がされていないというのはその通り。

  • しかし、有害図書規制が合憲である為には、非行等の害悪を生じる相当の蓋然性があれば足りる。

  • 青少年の保護や規制が一般的に是認されているからといって、安易に相当の蓋然性があると考えるべきではない。必要限度を超える事は許されない。

  • が、有害図書による非行誘発やその他害悪がある事の科学的証明がないからといって、それが直ちに違憲になるとはならない。

  • 法令による青少年保護の為の表現の自由、知る自由の制約を直ちに合憲な規則とする事はできないが、社会の共通認識から見てこれを制限する事は相当の蓋然性の要件を満たすといっていい。

  • 問題は、条例による規制方法が憲法上許される必要な限度を超えるかどうかだ。

ここは大分苦しいところがあって、要するに「過度な規制はダメだが、科学的根拠がなくても世論が青少年の保護を求めて非行誘発等を恐れているから規制は合憲ですよ」と言っている訳だ。
なので「青少年に有害な科学的根拠ないじゃん、はい論破」と言うだけでは通らない事になる。
「社会の共通認識」とやらを変えなければならない。
そもそも科学的根拠で言うなら、今年閣議決定された「女性の再婚禁止期間廃止」だって、これとセットでDNA鑑定を義務化すれば「子供の実親が誰か」という子供の保護法益は完全に守られる事になるが、今のところDNA鑑定の義務化までは議論されていない。
青少年保護育成条例が「子供への悪影響」を推認しているのと同じように、「今の両親との間の子供ならその子供だろう」と推認されているに過ぎないのだ。
また、子供が前夫との間の子になる事を恐れた母親が出生届を出さない事で無戸籍児になってしまうという、「制限によって逆に子供への弊害が生じている」といった事情もある。
その為、青少年保護育成条例を否定する為には、科学的根拠の他に「青少年が過剰なエログロ犯罪描写に触れられない事で起こる弊害」といった要件を満たす必要があると考える。あるかそんなの……?性教育や道徳教育を充実させる方向で事足りるのでは……?

「なら世論が変われば、相当の蓋然性の要件を満たさなくなるから違憲になるじゃん!」と思ったそこの貴方。
道行く人に「ガチエロ(プレイ〇ーイのグラビア面でもいい)を子供が読んでてもいい?」と聞いてみて欲しい。子供が高校生とかなら「いいよ」と頷く人もいるだろうが、小学生とか保育園レベルになると拒否してくるのが想定できるだろう。小学生だと何か悪影響あるかも……みたいな世論がある限り、ここは突き崩せない。
つまり、見せる範囲の緩和は期待できても、撤廃自体は無理だという事だ。
そもそも、この手の条例は淫行条例や児童ポルノに関する規定も兼ねている事が殆どで、エロを見てもいい年齢を引き下げるには、「性交同意年齢や児童ポルノの該当年齢も同様に引き下げる」か、「表現規制項目のみを削除して、例えば小学生以下を対象とした別個の表現規制条例を作る」、「第一条辺りにある条例の対象年齢の内、表現物に対してだけ年齢を引き下げる項目を追加する」必要が出てくる訳だ。果たしてこれが可能だろうか?

続いて(三)に移ろう。

  • 当該条例で表現の自由、知る自由の制限が許されるのは、青少年保護の為の規制である特殊性に基づく。

  • ただし、青少年の知る自由を制限する事が目的でも、その規制の効果が成人の知る自由を全く封殺する場合には違憲とされる事を免れない。

  • しかし、成人にこの規制を受ける図書等を入手する方法があるなら、その限度で成人の知る自由の制約もやむを得ない。

  • 現に自販機での販売がなくとも、他の方法でこの図書に接する機会が全くないとの立証はないし、有害図書とされるものは一般に価値がないかもしくは極めて乏しい事を考えると、成人の知る自由の制約を理由に条例を違憲とする事はできない。

あくまで、表現の自由・知る自由の制限が許されるのは、「青少年の保護」という理由があるからで、他に悪書指定された本を入手する手段があるなら制限もやむを得ない。有害図書は一般的に価値が低いから仕方ないね。
というような事を言っている。
これが大分悪筋で、都条例のクソガバ基準が批判されたのは、出版社の殆どが東京にあるのにクソガバ基準による販売自粛や不健全図書指定されての発禁処分がされたら大人でも入手手段がねーじゃねえかという当たり前のツッコミが入ったからだ。
とはいえ、インターネットの拡大により、通販という手段がある為にネットのなかった時代より楽になった点は向かい風なように思うが、ネット通販の自主規制が公平に来るなら似たようなものか?
そして、クールジャパンとかやってる中で、「でもエロ本は全年齢向けより価値ないよね……?」みたいな事を言うのもふざけた話である。
まぁここについては、(一)で述べたように青少年の精神的未熟さを否定すれば結構押し返せると思う。
ただ、どうしても(二)で述べた通りの小学生以下に対するエロ容認は認められる可能性が低い。「全年齢向け>エロ」という構図も、子供に見せたくない番組で下ネタが多い所謂低俗な番組がランクインしているような現状だと厳しいものがある。
誤解を招くといけないが、私は別に下ネタが低俗だと信奉している訳ではない。
ただ、いくら「全ての表現は平等だ」とのお題目を掲げていても、(二)で述べたようにこの規制は社会共通認識を根拠としているのだから世論のこれを突き動かす必要があるのだ。というか、「全ての表現は平等」なら「BLも平等に扱う」べきでは……?

お次は(四)。

  • 条例による規制は「検閲」に当たらない。なぜなら既に出版された図書が対象だし、悪書指定を受けても成人は入手できるから。

  • 個別的指定、包括指定に関わらず、事前抑制的な性格を持っている規制だから、厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許される。

  • だが、有害図書指定を受けても販売手段が残されている事や後述する通達等で判断基準が明確な事、規制の目的が青少年の保護である事を考慮するとそれでもなお合憲である為の要件を満たしている。

悪書指定は既に出版されたものが対象だから検閲じゃないよ!本来この手の規制は厳格で明確な要件が必要だけど、成人なら買えるし、通達で基準は示してるし、青少年の保護が目的だからセーフだよ!というような事を言っている。
ここは、どうしても「青少年の保護」が鍵になってくる。
この規制には「青少年の保護」というお題目があるから、必要要件が多少甘くても許されるという論理展開だ。
(一)で言った通り、青少年は精神的に未熟じゃないんだよ!だから保護はいらないんだよ!とするしかないが、やはり(二)で言ったように小学生とかその辺の精神的未熟さを否定できる要素はないように思うし、世論の容認があるとも思えない。
いくら科学的根拠を出しても、保護者の不安という世論には勝てないのだ。この辺り、「安全より安心」を彷彿とさせるので非常に納得がいかないのだが、裁判所が「科学的根拠>世論」という判決を出すようになればその風潮も変わってくるかもしれない。
また判断の不明確性で都条例を攻めるという手もあるが、BLの不健全図書指定の積み重ねで運用実績が爆上げされている。
「過去の不健全図書指定で散々基準は示したじゃん?」と言われて反論は可能だろうか。

次は(五)。

  • 公正な機関による手続きを経て、有害図書かどうかの判断を慎重にし、妥当なものにするよう担保する事が、有害図書規制を合憲とする有力な一つの根拠と言える。

  • 包括指定方式は上記手続きを欠く点で問題となりえるが、この方式は青少年が安易に有害図書を入手できる事から生じる弊害を防止する為の対応策で、自販機での購入は書店購入より心理的ハードルが低い事から個別指定までのタイムラグで入手を防ぐ事ができない為に包括指定の必要性は高い。

  • 必要度が高い=表現の自由の厳しい規制は合理的とする事はできないし、制限は当然だと速断する事はできないが、他に有害図書を青少年が入手する事を有効に抑止する事ができないのならやむを得ないものと認めるしかない。

  • 包括指定の基準が明確で、その指定範囲が必要最小限度である限り、成人の知る自由が完全になくなっていないのなら、違憲と断定する事はできない。

ここは裁判所側の苦渋の判断が見受けられるところ。
本来は個別指定で対応するべきだが、購入の心理的ハードルが低い手段で販売されると出版→審議の間に購入されてしまって間に合わないので包括指定をするしかない。
包括指定の基準が明確で、必要最小限度に留まり、知る自由全体が死んでいなければ、違憲とは決めつけられない。
といった事を言っている。
ここが都条例のずるいところで、都条例は包括指定を採用してないから「その指定範囲が必要最小限度ならまぁ……」みたいな苦渋の判断をスルーしている。
もし都条例が包括指定を採用してたら一発アウトだったと思う。
一方で「公正な機関による手続きではない」といった理屈で都条例を攻める事は可能だろうが、審議録は公開されているので「いや、公開してるじゃん?」というのが裁判所にどう判断されるかだろう。
ただ、購入の心理的ハードルについては、ネット通販だと自販機同様顔を合わせる必要がないので下がってしまうと思われる。アカウントも年齢をちょろまかせばどうにかなってしまうし。まぁそれでもそれを防ぐ為に「あなたは18歳以上ですか?」とワンクッション置いてるんだろうが。
ここは包括指定についての判断なので、包括指定を採用していない都条例には適用できない。次に移る。

2

 二 基準の明確性
 およそ法的規制を行う場合に規制される対象が何かを判断する基準が明確であることを求められるが、とくに刑事罰を科するときは、きびしい明確性が必要とされる。表現の自由の規制の場合も、不明確な基準であれば、規制範囲が漠然とするためいわゆる萎縮的効果を広く及ぼし、不当に表現行為を抑止することになるために、きびしい基準をみたす明確性が憲法上要求される。本件条例に定める有害図書規制は、表現の自由とかかわりをもつものであるのみでなく、刑罰を伴う規制でもあるし、とくに包括指定の場合は、そこで有害図書とされるものが個別的に明らかにされないままに、その販売や自販機への収納は、直ちに罰則の適用をうけるのであるから、罪刑法定主義の要請も働き、いっそうその判断基準が明確でなければならないと解される。もっとも、すでにふれたように青少年保護を目的とした、青少年を受け手とする場合に限っての規制であることからみて、一般の表現の自由の規制と同じに考えることは適当でなく、明確性の要求についても、通常の表現の自由の制約に比して多少ゆるめられることも指摘しておくべきであろう。 右の観点にたって本件条例の有害図書指定の基準の明確性について検討する。論旨は、当裁判所の判例を引用しつつ、合理的判断を加えても本件条例の基準は不明確にすぎ、憲法二一条一項、三一条に違反すると主張する。本件条例六条一項では指定の要件は、「著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長する」とされ、それのみでは、必ずしも明確性をもつとはいえない面がある。とくに残忍性の助長という点はあいまいなところがかなり残る。また「猥褻」については当裁判所の多くの判例によってその内容の明確化がはかられているが(そこでも問題のあることについて最高裁昭和五四年(あ)第一三五八号同五八年三月八日第三小法廷判決・刑集三七巻二号一五頁における私の補足意見参照。)、本件条例にいう「著しく性的感情を刺激する」図書とは猥褻図書よりも広いと考えられ、規制の及ぶ範囲も広範にわたるだけに漠然としている嫌いを免れない。 しかし、これらについては、岐阜県青少年対策本部次長通達(昭和五二年二月二五日青少第三五六号)により審査基準がかなり具体的に定められているのであって、不明確とはいえまい。そして本件で問題とされるのは本件条例六条二項であるが、ここでは指定有害図書は「特に卑わいな姿態若しくは性行為を被写体とした写真又はこれらの写真を掲載する紙面が編集紙面の過半を占めると認められる刊行物」と定義されていて、一項の場合に比して具体化がされているとともに、右の写真の内容については、法廷意見のあげる施行規則二条さらに告示(昭和五四年七月一日岐阜県告示第五三九号)を通じて、いっそう明確にされていることが認められる。このように条例そのものでなく、下位の法規範による具体化、明確化をどう評価するかは一つの問題ではあろう。しかし、本件条例は、その下位の諸規範とあいまって、具体的な基準を定め、表現の自由の保障にみあうだけの明確性をそなえ、それによって、本件条例に一つの限定解釈ともいえるものが示されているのであって、青少年の保護という社会的利益を考えあわせるとき基準の不明確性を理由に法令としてのそれが違憲であると判断することはできないと思われる。

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/356/050356_hanrei.pdf

要約。

  • 法的規制を行う場合には明確な基準が求められ、刑事罰を科す時は厳しい明確性が必要。表現の自由の規制の場合は厳しい基準の明確性が憲法上要求される。

  • 特に包括指定の場合は一層その判断基準が明確でなければならない。

  • しかし、青少年保護を目的とした、青少年に限っての規制であるから、一般の表現の自由と同じに考える事は適当ではなく、通常と比べて多少明確性は緩められる。

  • 条例規定の「著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長する」は、これ単体では明確性を持つとは言えないが、通達により審査基準がかなり具体的に定められているので、不明確とは言えない。

  • 青少年の保護という社会的利益と考え合わせる時、上記により限定解釈が示されているので、基準の不明確性を理由に違憲とする事はできない。

確かに都条例第七条の一の自主規制や第九条の二の販売規制の部分は非常にガバいのだが、不健全図書指定制度の部分に限っては他の青少年保護育成条例と同じく「著しく」「甚だしく」といった修飾語を使っており、あくまで同程度の文言に留まっている。
そして、都条例が採用しているのは、高い明確性が求められる包括指定ではなく個別指定。
都条例を改正した人達は非常に愚かなのだが決して馬鹿ではないのだ。
ここを間違えて「なんだ違憲なんだろ?訴えろー」とやると、「この条文(第七条の一や第九条の二)は経済活動の自由の範疇やろ?違うんちゃう?」で返り討ちになる可能性があるので慎重に見極める必要がある。表現の自由と経済活動の自由については、二重の基準論が採用されており、経済活動の自由の制限は表現の自由の制限よりもハードルが低い事情がある。
こうやって法解釈を垂れ流している私も、別に弁護士とかそんなのじゃないので、ここは怖くて断定できない。
都条例を簡単に違憲だって言う人はよく言えるよな。そこまで違憲なのが明らかなら12年の間ほったらかしになってないんだわ。

3

 三 本件条例と憲法一四条
 条例による有害図書の規制が地方公共団体の間にあって極めて区々に分かれていることは、所論のとおりである。たしかに本件条例は、最もきびしい規制を行う例に属するものであり、他の地方公共団体において、有害図書規制について、単に業界の自主規制に委ねるものや罰則のおかれていないものもみられるし、みなし規制を含め、包括的な指定の方式を有するところは一〇余県で必ずしも多くはなく、自販機への収納禁止を定めながら罰則のないところもある。このようにみると、青少年の保護のための有害図書の規制は地方公共団体によつて相当に差異があるといってよいであろう。
 しかし、このように相当区々であることは認められるとしても、それをもって憲法一四条に違反するものではないことは、法廷意見の説示するとおりである。私は、青少年条例の定める青少年に対する淫行禁止規定については、その規制が各地方公共団体の条例の間で余りに差異が大きいことに着目し、それをもって直ちに違憲となるものではないが、このような不合理な地域差のあるところから「淫行」の意味を厳格に解釈することを通じて著しく不合理な差異をできる限り解消する方向を考えるべきものとした(法廷意見のあげる昭和六〇年一〇月二三日大法廷判決における私の反対意見参照。)。このような考え方が有害図書規制の面においても妥当しないとはいえないが、私見によれば、青少年に対する性行為の規制は、それ自体地域的特色をもたず、この点での青少年の保護に関する社会通念にほとんど地域差は認められないのに反して、有害図書の規制については、国全体に共通する面よりも、むしろ地域社会の状況、住民の意識、そこでの出版活動の全国的な影響力など多くの事情を勘案した上での政策的判断に委ねられるところが大きく、淫行禁止規定に比して、むしろ地域差のあることが許容される範囲が広いと考えられる。この観点にたつときには、本件条例が他の地方公共団体の条例よりもきびしい規制を加えるものであるとしても、なお地域の事情の差異に基づくものとして是認できるものと思われる。
 このことと関連して、基本的人権とくに表現の自由のような優越的地位を占める人権の制約は必要最小限度にとどまるべきであるから、目的を達するために、人権を制限することの少ない他の選択できる手段があるときはこの方法を採るべきであるという基準が問題とされるかもしれない。すなわち、この基準によれば、他の地方公共団体がゆるやかな手段、例えば業界の自主規制によって有害図書の規制を行っているにかかわらず、本件条例のようなきびしい規制を行うことは違憲になると主張される可能性がある。しかし、わが国において有害図書が業界のいわゆるアウトサイダーによって出版されているという現状をみるとき、果して自主規制のようなゆるやかな手段が適切に機能するかどうかは明らかではないし、すでにみたように、青少年保護の目的での規制は、表現の受け手が青少年である場合に、その知る自由を制約するものであつても、通常の場合と同じ基準が適用されると考える必要がないと解されることからみて、本件条例のようなきびしい規制が政策として妥当かどうかはともかくとして、他に選びうるゆるやかな手段があるという理由で、それを違憲と判断することは相当でないと思われる。
 以上詳しく説示したように、本件条例を憲法に違反するものと判断することはできず、これを違憲と主張する所論は、傾聴に値するところがないわけではないが、いずれも採用することができないというほかはない。

  平成元年九月一九日
     最高裁判所第三小法廷
         裁判長裁判官    伊   藤   正   己
            裁判官    安   岡   滿   彦
            裁判官    坂   上   壽   夫
            裁判官    貞   家   克   己

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/356/050356_hanrei.pdf

最後の要約。

  • 有害図書規制が各都道府県毎にバラけている事は確かだし、岐阜県の条例は厳しい部類に属するもので、他県では自主規制に委ねるものや罰則のないものもあるし、包括指定も10県かそこらで必ずしも多くはない。本件の自販機への収納禁止も罰則がないところはある。

  • こうしてみると有害図書規制は都道府県によって相当に違いがあるといっていいのだが、それを理由に憲法14条に違反するとはいえない。

  • 裁判長はかつて青少年条例の定める淫行禁止規定について、都道府県によって大きな違いがある事を「直ちに違憲とはならないが、これは不合理だから『淫行』の意味を厳格に解釈して地域差を解消するべき」だと意見した事がある。

  • この考え方は有害図書規制についても同じ事が言えるが、有害図書規制の場合は国全体に共通する面よりも、地域社会の状況や住民の意識、そこでの出版活動の影響力など多くの事情を勘案した上での政策的判断に委ねられるところが大きいから、淫行禁止規定よりも地域差が許容される範囲が広い。

  • この観点に立つと、岐阜県の条例が他県より厳しい事は地域事情の違いによるものとして是認できる。

  • これに関連して、他の都道府県が業界の自主規制のような緩やかな手段を取っているにも関わらず、岐阜県のように厳しい規制を行うのは違憲だと言われるかもしれない。

  • しかし、日本における有害図書が業界外の人間によるものという現状を見る時、業界の自主規制が適切に機能するかは明らかではないし、先述したように青少年の場合は通常と同じ基準が適用される必要がないから、岐阜県の条例のような厳しい規制が妥当かはともかくとして、他が緩やかだからという理由で違憲と判断する事はできない。

  • 以上の事から、岐阜県の条例を違憲とする判断はできない。「違憲だ」という意見は聞く価値がない事もないが、どの主張も採用する事はできない。

他の県は規制緩いじゃん!だから厳しい方の条例は違憲じゃん!という主張を退ける判断。
要するに、東京の出版社と鳥取の出版社で全国的な影響力は一緒か?大阪と鳥取で民度一緒か?地域差を考えるべきでは?みたいな感じ(鳥取を例に挙げて申し訳ない)。
この時代は有害図書の大体が業界の自主規制を受けない業界外の人間によるもの、つまり同人とかヤミ本だったりした訳だ。
男性向けレーベルの成人向けマークは90年代に入ってからの話だが、この判例を見るに自主規制そのものは存在していたようだ。
有害図書の多数が業界外の人間による物の場合、そこに業界の自主規制は働かないので規制も仕方ないよな?という論旨。
ここで厳しい規制が妥当かどうかって判断から逃げてるのがマイナスポイントだが、時代背景を考えると仕方ないといったところか。
現在は、コミケとかの同人界隈と業界の自主規制が概ね一致している(むしろ同人側の方が厳しい場合もある)ので、「今は同人も業界に沿ってるし、厳しい規定はなくてもいいんじゃない?」という方向性で攻めるのは悪くないと思う。
都条例の改正も「いつまでも不適切なものが蔓延ってるから改正や!」みたいな流れだったので、業界の自主規制がしっかりしていれば緩和の話もできる可能性はある。個別指定のなくなった北海道の事例もあるし。
ただ、この場合だと業界の自主規制があるからこそ緩い規制にしてんやでって事だから、業界のレーティング自体はなくす事はできない。
先々で散々述べた通り、エロを小学生とかに見せた悪影響を不安視する世論を無視する事もできない。

終わりに

さて、冒頭に戻る訳だが、果たしてこの判例を基に都条例を無効化して直ちに男性向けレーベルを全て一般化(=BLと同基準)する事は現実的だろうか。
私としては、一般化を容認するコンセンサスが今すぐ得られるのなら、不平等の時期はごく僅かになる為、緩和派になるのはやぶさかではない。
しかし、エロ容認のコンセンサスを得るまでの期間が長期化した場合には、男性向けレーベルの自主規制はそれまで続くという事である。
ここで「BLを現状のまま不健全図書指定されないようにしよう」とする意見を採用するとどうだろうか。男女の不平等化を長期化してでも継続しろという事だ。

改めて言うが、日本は法治国家である。
強制性交罪の成立等、男女間の不平等は取り除かれるべきという価値観も高まっている。
この状況で「BL(女性向け)だけ特別扱いでお願いします」というのが全般に受け入れられるだろうか。
そもそもとして、表現の自由勢といっても一枚岩ではなく、主に「ゾーニングは一切いらない」「ゾーニングは最低限でいいんじゃないか」「ゾーニングは普通にいるでしょ」の勢力に分かれている。
そして、これまたややこしい事に「ゾーニング一切いらない派」「ゾーニングは最低限にすべき派」「ゾーニングは普通にすべき派」で先のBLへの対応が「レーティング拒否」か「レーティング容認」に分かれてしまう事になっている。

ここで勘違いしてはいけないのだが、男性向けが現在行っているのと同じ自主規制(成人マーク)を適用するのは、あくまで「男性向け成人誌と同程度以上の描写を行っているBL作品」である。
「BLは男性向けより強い規制に置かれるべきだ」と主張している人は少なくとも私の観測した範囲では存在しない。そんなのは余程のBL憎悪者だろう。「男性向け成人誌と同程度以上の描写があるならレーティングも仕方ないよね」というマイルドな表現の自由派もいるはずだ。私もそこに該当する。

理想論を唱える事は立派だが、それと現実の法にどう対応するかという話は別問題である。
「〇〇法に反対だから〇〇法は守る必要はない」という論理適用は法治国家として通用しない。
また、「都条例はそもそも違憲だから守る必要はない」「ルールとして成立してないから違反自体存在しない」という主張をされる方もおられたが、そういった違憲判断をするのは裁判所である。貴方個人が勝手に判断する事ではない。

「この判例はBLを対象にしたものじゃないから関係ない」「今有害図書指定されずに売られているエロBLは関係ない」といった意見もあったが、これは明確に誤っている。
この判例は表現物全般の中から青少年に有害とされる表現について判断されたものだ。このような主張は、「BLは表現物全般に当たらない」と言っているに等しい。
また、BL業界がレーティング制を採用していない以上、どのエロBLが通報により不健全図書指定の憂き目に遭うかもわからない。だからこそ、男性向けレーベルは全年齢と成人向けでは表現を区分(性器修正とかエロの比率とか)している訳だ。
そのような論理帰結ができないのは、法に対する認識が相当に甘いと言わざるを得ないし、所謂BL無罪論と捉えられても仕方のない事であろう。
現状の潜在的なリスクをそのまま抱えるよりは、レーティングを採用して審議会の俎上外で好きなように表現する方がリスクは低いし、BL業界の都合で毎月生贄に捧げられるBL作家の境遇を思うと苦しい思いがある。

ここにこのようなツッコミがあったので該当箇所含めて加筆修正しておく。
確かに「はっきり」とはしていなかった。
一応私も「インゴシマ」とかの一般向けエログロ系漫画を読んでいた事はあるのでそこは理解する。訂正しよう。
だが、「インゴシマ」の場合はあくまでサバイバル部分がメインで性器や結合部分までは多量かつ明確に描写されていないからセーフなんだろうなと納得する事はできる。他作品についても、エロ比率が高めなら明確性をボカす、エロ比率を抑えた分やや明確性を甘くするといった事でバランスを取って不健全図書指定を免れている可能性は否定できない。
ここが各社の判断に委ねられている為に表現にバラつきが出ているという事や、チキンレースをしている青年誌もあるというのは確かにそうだ。しかし、自主規制というのはそもそもそういうものであるし、だからこそ男性向け全年齢誌でも不健全図書指定される事は今もまだ残存している訳だ。
それならば、「なら出版社業界で話し合ってどこまでならセーフか擦り合わせていこう」となるのが自然な流れであって、そもそもR18レーベルが極僅かでありながら自主規制すらほぼやっていないBL業界は論外である。
それに「男性向けは自主規制(レーティング)をしているから完全セーフ」といった事は最初から書いておらず、そもそも自主規制(レーティング)を主だって導入していない一般向けエロBL(どういう事だよ)には当てはまらない話ではないかと思う。全年齢向けで売りたいならせめて結合部分は隠せよという話だ。
また、わざと誤認しているのかもしれないが、「BL全てをゾーニングしろ」とはどこにも書いていない。書いてもいない事について論じられても困る。
仮定の話なのであまり相手にしたくないが、仮に「BL全てがゾーニングされる」「BL要素自体が全年齢から排除される」という事態が起こったとして、そのような事態は全年齢も成人向け相当もごちゃ混ぜになっている現状と最低限住み分けするべきといった主張のどちらで起こりえるだろうか。
そして、「長野県には有害図書指定がないが?」という主張も、この判例で「規制に地域差があるのは(淫行条例よりは)是認できる」とある訳だから、そこに触れずに嚙みつくのはどうかと思う。
結局、成人向けならエログロがよりメインになるし、結合部分も出して性行為描写がより明確になるんだろうなという結論にしかならない。
男性向けにおいて、全年齢向けでは成人向けより描写が少なからず抑えられている傾向にあるのは明らかではないだろうか。
「こんなに長文で反論して怒ってるの?」と思う方、その通り。ブチ切れている。
「この判例があるから青少年保護育成条例が是認されている」「この判例を踏まえた上で反論するべき」「法治国家なのだから『悪法も法なり』で対応するべき」という表現の自由を守る上で前提にするべき話をこんな論点でとっ散らかされるのは甚だ不本意である。ぬるぬる論法と言うべきだろうか。
というか、「判例があってこれが規制緩和を妨害している」という本文の論旨には同意しているのだから、こんな枝葉の文末に噛みついて「BL業界も他出版業界に倣うか否か」といった現実の話をしないのは意味がわからない。論点をすり替えているように思う。
以上加筆。

ただ、私の主張するレーティング導入もあくまで業界の自主規制という形だから、導入するか判断するのはBL業界だという指摘は正しい。
ただし、現状の不健全図書という生贄を出しながら出版を続ける業界のスタンスが行政からどのような目で見られるかは怪しいものである。遵法精神のない業界が「自浄作用がない」と指摘されるのは極当たり前の帰結なように思う。
この判例ができた当時は非商業が有害図書の多数を占めていた。だからこそ、行政が業界に代わって規制を行うという事が認められたのだ。
その本来自主規制の働いているはずの出版業界で、生贄を出しながら出版を強行する姿勢はどのように映るだろう。「やはり行政による規制は必要だ」とならないだろうか。
「業界の自主規制が進んでいる」という理由から、行政から自発的に個別指定を行う事を廃止した北海道の例を見るに、様々な言い訳を重ねて条例は頑なに守ろうとしないBL業界の態度を容認する事はむしろ逆効果になりかねないと考える。
これで12年前の都条例改正と同じロジックにより「不健全図書指定が続くので規制を強化します」となったらどうするのだろう。男性向けレーベルも巻き添えになって目も当てられないが、それもまた業界の自己責任という話になるのだろうか。

また、「BLへの基準適用の容認は表現の自由の後退である」という意見については、傾聴に値しない事もない。
しかし、これはかつて炎上した宇崎ちゃんやたわわのように、明確な合法的表現に対する規制要求とは全く異なる事は指摘しておきたい。
BL作品で挙げるとするならば、私も読んでいた「女装コスプレイヤーと弟」という作品があるが、それが義兄の女装姿に惚れている弟によるホッペへのキスといった描写をもってして成人×未成年の性的搾取だと言われたら、当然だが反発もするし反対もする。
だが、現在不健全図書指定を受けている書籍についてはどうだろうか。
事の発端になったと言えなくもないH先生の「主任のエロさ、コンプラ違反です!」については、東京都の審議録にあるように成人向け並の描写をしているとの判断が下されている。
そもそもとして、このように「成人向け相当の描写がある」として不健全図書指定を受けた作品を宇崎ちゃんやたわわと同列に扱うのが間違っているのではないだろうか。
また、BLがレーティングを受け入れた分、男性向けも表現を後退すべきと主張している訳ではない。
今ある基準にBLも適合すべきだと言っているのだ。
それをもってして「表現の自由の後退だ」とするのは、大分無理のある主張であるように思える。

そもそもとして、表現の自由勢というのは、憲法に定められた表現の自由規定に立脚している。
そして、法の下の平等もまた、憲法に定められた規定を基にしている。
BL規制に反対して、法の下の平等を損なうとどうだろう。自らの立脚点である憲法を毀損する事になる。
なら、BL規制(男性向けレーベルの自主規制の導入)をするとどうなるだろう。表現の自由を損なうので自らの立場がなくなるのだ。

つまりはどちらに転んでも、表現の自由を損なうか土台の憲法を毀損するかの二択しかなく、まだ自主規制の導入を促した方が遵法意識があるだけマシというところまであり、表現の自由勢としては詰んでいるとするのが相当に思う。

判例の「青少年の知る自由は制約され得る」という判断がある以上、表現の自由は無制約ではない。
ヘイトスピーチ解消法があるのも大きい。
で、ありながら、表現の自由を第一義に掲げ、他の憲法法規より優越するかのような主張をするのは果たして正しい姿なのだろうか。
そもそもとして、法律を守る事と改正運動を行う事は両立するはずだ。
そうでなければ、現在条例遵守を心掛けている全ての表現者が「表現規制容認派」「表現規制追認派」という事になる。普通に考えてそれはおかしいと思わないのだろうか。
規制を憎む余り、表現の自由原理主義とも言える主張をしていないか、アナーキストになっていないか一度自省してみて欲しい。

追記

なお、「BL規制派がいきなり法の下の平等を持ち出した」といったような主張も見られたので、私がいつから「男女で表現の基準は揃えるべき」と主張しているか明記しておく。

少なくとも、最初にH先生が燃えた4月の時点で既にこのように主張している事がわかる。
面倒なのでこれ以前のツイートは掘っていない為、これ以前については未確認である。


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