言葉と目が合う
「言葉と目が合う」瞬間がある。そう、それは運命の人と会ったようなそんな感覚で……流石に言いすぎだな。そう、それはTwitterで「エンカ」するような感覚である。
最近は全然新しい言葉と目が合っていない。
一番最後に目が合ったのは「サージカルマスク」さんだろうか。何かの文章で出てきたサージカルマスク。サージカルマスク? 英語に疎い自分は意味を調べた。
広義には医療用のマスク、狭義には外科手術で使われるあの青いマスクのことだった。なるほどなるほど。サージカル、外科、確かにそんな意味あった気がする。
まだここでは目が合ってない。この状況はまだTwitter上で気になる人を見つけてツイートを少し遡って見た程度だ。
特に用事もなく100円均一に行ったときにそれは起こった。サージカルマスクさんと目が合った。
いつもお店に入ったら大抵入口近くにあるマスクコーナー。そこの一角の右端、下から二番目のマスクの箱に「サージカルマスク」と書いてあった。
目が合った。「ここにいたんだ、今までもずっと」って。エンカだ。
「しいたけ占い」さんと目が合った。友達から教えてもらったウェブで読める分量のとても多く読むと元気になれるその占いは、教えてもらってから毎週の楽しみになっていた。
同じ頃、卒業前の思いつきで文芸誌のようなものを作っていて「文芸ってなんだろう、ガチもんの文芸誌を一度買ってみよう」と思い、文學界のバックナンバーを買う。千葉雅也さんが哲学の入門書についてインタビューを受けている記事があってそれが読みたかった。
記事を読むと、出てきたのだ、「しいたけ占い」さんが。
今回書いた現代思想入門の文体がしいたけ占いと似ていると言われて実際そう思ったみたいな文脈だったと思う。
目が合った。
予想外の場面で、いつも言葉は急に現れる。
その偶然性ゆえにその感覚は、その出会いはとても運命的に思えるのだ。
そういう意味では、実際に会う手筈を整えて必然的に会うエンカは例えとしてよくなかったかもしれない。やっぱ運命だ。運命の人と会う感覚と言って過言ではないことにしよう。
言葉を知ることは自身の世界を広げることだ。今まで認識していなかった、本当はずっと前からそこに存在していた言葉が、目の前に初めて現れるとき、あたかも私たちは自身の世界が広がったような感覚を覚える。しかしそれは錯覚である。世界にその言葉は生まれてからずっとそこにいたのだ。私たちはずっと無視しているのだ、そこに言葉はいたはずなのに。
言葉と目が合う感覚は、それつまり、世界が広がる錯覚だ。
言葉を集めて、集めて、たまにひょこっとそれが現実に現れる。目が合う。
「初めまして、噂には聞いていますよ、今まで気がつかなくてごめんなさい、あなただったんですね、いやはや最近どうですか」そんな感覚を言葉に覚えるのだ。不思議なもので、一度目が合った言葉はそれからすぐにまた会えることが多い。私の世界にその言葉が住んでくれているから。
あなたの周りにも、私の周りにもまだ気付かれず寂しそうにしている言葉がいます。その言葉と目が合った瞬間の楽しさったら何にも変え難い本当に小さな喜びで、それがとても嬉しくて。