エッセイが動き出す
自己否定の鬼である。二十歳を超えたらもうちょっとマシな人間になっていると心の底から思っていた。余裕ができて自信が生まれていると思っていた。精神的に自立できて、自分の機嫌は自分でとれるようになると思っていた。
小学校の頃だ。うちの田舎の小さな学校は下校を一斉に行う。六年生がリーダーとなって一列に、私語なく完璧な下校を遂行しなければならなかった。一番前に先頭で舵を切る六年生、一番後ろにも監視役の六年生。僕は一番後ろの監視役だった。
怖い担任の先生がいて、黒のでかい車でたまに下校の様子を見にくる。もし隊列が乱れていたら、もし私語をしながら歩いていたら、それはそれは大きな眼で、今にも殴りかかってきそうな声で車内から注意されるのだ。それが怖くて僕はまっすぐ綺麗な一列を少しでも乱すやつがいたら
「〜くんもっと右よって、まっすぐ!」って言っていたし、少しでも私語するやつがいたら、
「〜ちゃん喋らないで! 私語!」とか言っていた。
怖かったのだ。怒られたくなかった。でもそれ以上に当時の自分は純粋な正義感でそれをやっていた。
僕は本当に「いい子」になっていた。本当に隊列を乱してほしくなかったし、本当に喋らないでほしかった。先生への反抗心なんてなかった。下校は隊列を乱さず私語をせず完璧にしなければならないし、そうあるように自分が統制すべきだと思っていた。
しばらくして、担任の先生が見回りにほとんど来なくなって、今日ぐらいはいいかって自分の仕事を緩めた日があった。下校中に喋るなんてそんな当たり前のことがこんなに楽しいんだって思った。
下校中盤、あらたくんの家の前、右手には潰れた工場の跡地、今でも覚えている。怒鳴る声が先に聞こえて後ろを振り返るとあの車がゆっくりと近付いて来ていた。何を言われたかまではさすがに覚えてないけれど、とりあえず怒られたのだ。「昨日まではちゃんとやっていたんです。今日だけなんです」なんて自信なさげな言い訳が喉仏の少し下までキュッと上がってきて、飲み込んだ唾と一緒に消えていった。
それからはもっと「いい子」になった。過剰に「いい子」でなければいけないと思った。
自分の家に着いたら、そこで同級生の六年生とリーダーを交代する。そいつは全然「いい子」じゃなくて僕がいなくなった途端に隊列を乱し喋り出す。こんな光景を先生に見られたらまた先生に怒鳴られると思った。そうさせてしまった責任は自分にあると思った。
だから、ずっと見ていた。ずっと見ていた。見えなくなるまでずっと見ていた。隊列を乱さないように、私語をしないように。僕が見ていないとこいつらはすぐにダメになるから。ダメになってはいけないから。ダメになるのはダメだから。
そんな僕を見て一つ下の学年の女子が僕を指さした。笑顔で、それこそ子供特有の残酷なあの笑顔で
「なにあれ、赤ずきんちゃんみたい〜」って言った。
殴ってやろうと思って走った。冷やかすような声といっしょにスニーカーが地面を蹴る軽い音たちがなって、止んで、僕は人間を嫌いだと思った。
家に帰って、その日は共働きの親が帰ってくるまでずっとガレージの埃と砂が溜まった床に寝っ転がって天井を見上げていた。「大丈夫?」って「辛いことがあったの?」って心配されたかった。幼稚な行動だ。本当に本当の話だ。鶏が先か卵が先かわからないけれど、その頃から僕は真面目なヤツで、ネガティブなヤツだった。こうでなきゃ、そうなれない、そして怒られる。ダメな自分をとことん否定する。
そんなんだからとにかく自信がない。自他共に認める自信のなさだ。なにも自分に誇れるものがない。僕が僕を全く認められない。僕の中の真面目な僕は「こうしたい、こうありたい、こうでなきゃ」って思うけれど現実の自分はそんな僕の要求についていけるわけなくてさらにネガティブになる。以下繰り返しだ。そうして僕は二十年かけてそれを繰り返して、ネガティブの鬼に、自己否定の鬼になった。どこかでみんなそれを超えたり諦めたりできるのだろうけれど、まだずっと僕はそれを繰り返している。そんなコンプレックス芸をしている自分をさらに嫌いになる。
自分がこうやって書いている瞬間にも自己否定が思いつく。なにをイキってるんだって、自分だけが苦しいみたいなポーズが痛々しくてたまらない、病んでる、辛い、助けてくれってそんなかまってちゃんみたいなこというやつお前が一番否定してんだろ。
そもそもこうやって具体化して俺はこういう風に自分を否定しているんですよって書いてるこれも気持ち悪い。自己否定し続けていれば他者から否定されたときに「いや、俺が一番わかってるから」ってスタンスとれていいもんな。楽だもんな。俺は俺のことが認められませんってただそれだけのことを何をずっとタラタラ言ってんだ。「文章だから、これは創作活動だから」って言い訳か。お前のこれは創作じゃないよ。「センチメンタルで、でもセンスはあるって思ってほしいアマチュア物書き気取りさん(笑)」か? そういうのお前一番嫌いだよな? 違うの? 気持ちが悪すぎてしょうがないな。俺はお前が嫌いだよ。
自己否定の鬼は、否定する自分でさえ否定できるようになる。ここまで来ると終わりがない。
Twitter(X)には縮小アカウントなるものがある。多くの人に認知されている公開アカウントでは話せないことを信頼している少数の人だけにしか見えない形で語るためのアカウント。僕はあれができない。仲のいい人にしか見せられない愚痴を書いているイメージもあるが、絶対にそんなことできない。そんなもの垂れ流したら公害だと思う。そんな自分は見せたくない。人様に垂れ流せるような、固有名詞のない質の低い負の感情は持ち合わせていない。たかが140字で書ける量の負の感情ではない。本当に辛いことは苦しいことは自分の中で一人で戦うものだ。平気な顔してバカのふりして、傷つかないふりして生きていくんだ。こんな面倒くさいところとか、女々しいところを含めて誰かが受け入れてくれるなんてこれっぽっちも思っていない。誰かが認めてくれてたとしても決して僕は僕のことを認めない。全世界が味方になったしても俺だけは俺の敵だ。だからそんな間接的にでも慰めてほしいアピールとなってしまうことを僕はできない。
ネガティブが溜まりきって、空っぽなのにどうにも全部が重くてなにをやってもなにを食べてもダメな気がするときにはメモ帳に全部を書き殴る。頭の中に浮かんだ言葉を片っ端から書いて、書いて、止まるまで書く。書きながら次に書くことがすでに頭の中にあるし、愚痴の次に書くのは大抵さっきその愚痴を書いた自分への自己否定だ。
自分の気持ちを一行目に書いて、二行目で一行目の自分を否定している。そして三行目で二行目の自分に抗議する。
「ここでは俺しか見ていないから俺を否定する俺は引っ込んでてくれないか」って、
「俺しか見ていないのに、なんで俺が俺のこと否定して暗くなってんだよ」って書く。
この否定のループでまた気づく。否定している自分を否定している自分に。自分のことを否定している自分を否定している自分(自分を肯定しようとしている自分)は否定している自分(「否定している自分」を否定している自分)じゃないか。
自分のことを肯定したい自分と自分のことを否定したい自分どっちも大事にすることなんてそんなことできるだろうか。「そうだね、大丈夫だよ」って中立的な全肯定の自分を作ればいい? 頭がおかしくなりそうだ。アルコールや大量の情報で頭をパンクさせることで逆に空っぽになる気がするように、自分を否定して、否定した自分を否定して、それをまた否定してと終わりのない否定に疲れてやがて止める。頭に言葉が出てこなくなる。最初に自分のことを否定したくなるようななにかが生まれた時点で、それがある一定の感情の大きさを伴った時点で、自己否定のループ疲れになる未来は決まっている。嫌になるな。
っていうことに今気づいた。書いて初めて俺はこんなことをしていたんだって今気づいた。話は文章を書くことそのものに移る。
自分を救うために書いている。自分でもわからない突っ掛かりの答えを探すために書き始める。
小説を書く人が「キャラが勝手に動き出す」なんて言うのをたまに聞く。書く前でも書きながらでも、自分の中で世界観やキャラ設定が固まってくることで、自ずとそのキャラがその時する言動が明確に想像でき、それによって勝手にどんどんと物語が進んでいくのだろう。「自分はキャラに書かされていた」なんて言う人もいる。
しかし、エッセイでそれは聞かない。エッセイは動かない。語っている自分が動き出すってなんだ。自分の話を勝手に自分に書かされるってどういうことだ。意味がわからない。
しかし、しかしである。こう言いたい、「エッセイも動くのだ」と。
僕は「エッセイも動く」と思う。もちろん自分語りなのでキャラクターはいない。「自分のことを自分に書かされている」なんて書いたら多重人格のような気がしてくるがそれでも僕はそう言いたい。
自分でもなにがなんだかわからないこの気持ちだけで一行目を書き始める。なんとか文章にしようとする。その過程で勝手に答えが出てくる。わからなくなったら考える。どうにかオチをつけようと、答えを探そうとするのだ。そうして出てきた言葉は自分で書いているのに初めてわかった気がするし、納得感がある。見えない自分が自分に伝えようとしてくれているようなこの不思議な感覚。
書いて初めてわかるのだ。自分の気持ち悪さと面倒くささに。どういう構造で自分が今こんなふうになっているのか書いて初めてちゃんとわかる。
このエッセイに関してもそうだ。
なんで俺はこんなに自信がないのだろう。なんで俺は俺のことがこんなに許せないんだろう。なんで俺はSNSで愚痴を吐くことが認められないんだろう。
そして一行目に「自己否定の鬼である。」と書く。そこまではいい。しかし、次の段落で「小学校の頃だ。」と書き始めたとき、なんの意図を持って書き始めたのか、それは僕にもわからない。あのときのことを書くことがただ必要だと思ったのだ。
書き始めてようやく分かる。真面目で怒られるのが怖くてネガティブな自分が出来上がる象徴的なきっかけがあそこにあったのだと。そしてあのときの先生を内面化してそれが加速した結果何重にも自己否定をし続ける自分が生まれたのだと。そしてそれが一度ハマったら終わりのないことであることも。
自分を救うために書いている。世界観とかそんな大層なものを作ることに俺は一つも興味がなくて、ただどうにもならないコレをどうにかするために、パソコンを立ち上げて自己完結のセラピーを今日も始める。
「ただ私の存在を、存在しているというそれだけで自己肯定してあげること」だの、「生きてるだけでえらい」だの、「あなたはあなたのまま、そのままでいいんだよ」だのそんな言葉はもう刺さらない。耳障りだ、気持ちが悪い、どっかいってほしい。そんな責任をとってくれない陳腐な言い訳なんてもう僕を救ってくれる言葉じゃないんだ。だから書く。
俺が俺のままでいいなんてこれっぽっちも思っていないから、「そんな自分も素敵だね」なんて全く信じられないから。
そしてどうにかなってしまいそうな、そんな深夜にやっと一行目を書き始めたとき。エッセイは動き出すのだ。