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君が異端だった頃 島田雅彦     (二人称私小説の離れ業)

郊外の森で遊びながら自我に眼ざめ、多摩丘陵や川崎南部での荒唐無稽な空騒ぎを通して表現者たる自覚を固め、女の子と性欲に振り回され続け、文壇デビューしてからも変わらぬ行動力と破壊力で突き進む主人公の「君」、自称「島田マゾ彦」。

昭和から平成、そして現在もつねに注目を浴びる、無茶と優雅が矛盾なく同居している異端者が遺そうとする「記憶、記録」の「文書化」は、盛ったり削ったりした自伝という「ノンフィクション」ではなく、不都合な真実もためらいなく書かれた私小説という「虚構」の形を借りています。「虚構」を前に事実だの真実だの野暮なことを考えてしまう凡庸な読者を、作者は確信犯的に刺激します。

わたしが興味を持ったのは、この自伝「的」小説が二人称で語られていることです。これは、作者が含羞を込めて言うように「私事を他人事と突き放す」ためだけでしょうか。それ以上の何かを「君」という呼びかけに感じました。

自己の中の「他者」である「過去の自分」に向き合うとき、そこにあるのは、懐かしさ、切なさ、哀れみ、疚しさ、恥ずかしさ、慈しみ……肯定とか否定といったレベルを超えてしまったところにある、ある種の優しい眼差しではないでしょうか。このとき「君」という二人称が「語りの視点」であることの意味は大きいと思います。

一人称だと、語りの中に「いま・ここ」の自分が介入し、内的独白になってしまいます。内的独白によって語りうる事柄の内容は制限され、距離感の近さが持つ生臭みは、「過去の自分」への繊細な感情を殺してしまうでしょう。
三人称は、メタ視点で語る「主体」の前提を必要としません。背後にうっすらと見え隠れする何らかの意図を持つ者の姿があるとすればそれは「神」的でより抽象的な存在。「過去の自分」を引き受けている何者かがそこにいるという状況は生まれません。

「君」という二人称の視点は、語られることによって生まれていく存在です。物語においてこの視点は一瞬先のことも知らない。そんな主人公の生殺与奪の権を握りながら、作者は「過去の自分」を自己の中の「他者」として二人称で呼ぶことによって、向き合い、その一切を引き受けるのです。虚構の中で「記憶、記録」を「君」に託した作者は、撞着語法のようですが「正直な作家」たりえた。二人称でなければ、この絶妙な距離感は生まれなかったのではないでしょうか。

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