『地図と拳』小川哲 ~視線問題~
人間はなんのために地図を作るのか。
人間は場を支配し、建築物を造り、時間をそこに留め、自分たちの「地図」を作る。
そして拳でもって、「地図」を拡大するために戦う。
「地図」がある限り「拳」はなくならない。
『地図と拳』は、満州国建設の一環として、半世紀近くにわたり中国東北部の小さな街「李家鎮」でおこなわれてきた日本人による開発事業をめぐる人びとの物語です。
この時代に生きた大半の日本人や中国人は、たび重なる戦争や侵略や内戦の当事者。
生まれる前に父親が戦死している日本兵が、自分もまた子の顔を見ずに戦場で命を落とす。ロシア人に住んでいた土地を追われ、定住した集落も日本軍に収奪され、挙句の果てに住民が殺戮され、生き残って反乱軍を形成する中国人。何十年も流され続ける人びとの血。
英霊や勇敢や名誉や奉国…なんていう表現が単なる言葉による欺瞞にしか聞こえなくなってくる。戦場にあるのは、恐怖と狂気と怯懦と諦念でしかないのだ。
歴史のなかの小さな駒でしかないひとりの人間が、なぜ命を懸けて戦うのか、戦わなければならないのか、そして国とは、領土とは何か、政治とは何か、という永遠の問題を突きつけられながら読みました。
しかし、本書の叙述のスタイルの特徴に気がついてからは、別の角度から面白みが増し、のめりこみました。
というのも――
満州国、関東軍、満鉄、工事事務局などで働く日本人たち、李家鎮住民や義和団メンバーなどの中国人たちなど、さまざまな立場に置かれた人たちが登場するこの物語は、三人称で語られていくのですが、いわゆる「神視点」ではありません。
つまり主要な複数の登場人物の「視点」を通した三人称です。たとえば、「明男はそれが嫌だったのだ」と書かれているとき、内容的にそれは、「僕はそれが嫌だったのだ」に等しくなります。
特定の「視点(または目線)」をもつ三人称は、ときとして一人称のような機能を持っていますよね。この方法だと、登場人物たちの思いや葛藤が直接伝わります。そしてふつうは、主要人物であるほど「視点」を与えられる回数が多いのではないでしょうか。
ところが本作で、ただの一度も「視点」を“与えられない”ある人物がいます。物語の脳であり背骨であり、全編を貫く精神を体現しているともいえる、「細川」です。
全編を通して登場し、満州国の行き先について決定的な役割を果たすだけだけでなく、ほぼすべての登場人物の人生にかかわり、彼らの運命に非常に大きな影響を与えます。
李家鎮を仙桃城と命名して満鉄で開発工事の事務所長を務め、その後は戦争構造学研究所を設立する、満州における重要人物。しかも細川の夢は日本の領土拡大といったセコイものではありませんでした。
「こうして地図にこだわるのは、僕が国家とはすなわち地図であると考えているからです…国家とは…抽象的なもので、本来形のないものです。その国家が、唯一形となって表れるのは、地図が記されたときです」(pp.338‐339)
「なぜこの国から、そして世界から『拳』がなくならないのでしょうか。答えは『地図』にあります。…世界は狭すぎるのです…結局のところ人類は自分たちの無力さのせいで、戦うことを余儀なくされてしまっているのです」(pp.339‐340)
地図を俯瞰することで、李家鎮の伝説の指導者のような千里眼を得て、多民族と死者たちが共存する理想郷を造ろうとしているのだろうか……と若き主人公の明男は思い、ときには細川に反発しつつも大いに感化されていきます。
作品世界において重要なだけでなく、作品世界の方向性まで決めているような登場人物が、逆説的に叙述上の「視点」を持たないこと、ある意味「他者」としての登場しかないことには、どんな意味があるのか考え込んでしまいました。意味とまではいかなくても、何らかの効果を生んでいることは明らかです。
ふと思い出したのは、ある人物にかんする関係者の証言集という体裁を取った小説のこと。有吉佐和子『悪女について』、三浦しをん『私が語り始めた彼は』などが有名ですよね。他人の語りによって人物像を浮かび上がらせる手法ですが、『地図と拳』にも、そのような裏の仕掛けがあるのではないか、というのは深読みでしょうか。
物語内の「視点」を持たず、ひたすら対象として「語られ」る細川。生き生きとそこにいるのにミステリアスで超然とした存在。動乱の時代を切り抜け、喪った同朋たちの思いを胸に、しぶとく飄々として生きている。彼は、物語内のキーパーソンであると同時に、メタ視線で見れば、「地図」と「拳」が織りなすテクストの、色調とテクスチャを決定する精霊/魂(スピリット)なのかもしれません。
(2024年1月にインスタグラムに投稿した記事です)
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