『サド侯爵夫人』三島由紀夫
新潮社文庫の『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』三島由紀夫におさめられています。
『サド侯爵夫人』
全三幕の戯曲。一幕から三幕までのあいだには18年の時間が流れている。
登場人物はサド侯爵夫人ルネと彼女をとりまく5人の女性。サド本人は不在で、女たちの語りだけで彼の人物像がオーディエンス(読者/観客)の前に創りあげられていく。
サド侯爵とは『ソドムの百二十日』『ジュスティーヌ』などの小説で知られ、サディズムという言葉の語源ともなった、「ドナチアン・アルフィンス・フランソワ・ド・サド」通称マルキ・ド・サドのことである。
タイトルには「澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』に拠る」という言葉が添えられている。
なぜわざわざ戯曲仕立てにしたのだろうか。もちろん台詞の美しさ、様式美など、戯曲の醍醐味もある。女たちの鮮やかで哀しい数々の名台詞がなければ、のちに述べる裏テーマ1と2(わたしの勝手な命名)も陳腐なものとして片付けられてしまうだろう。
しかしもっとすごいのは、「献身的な妻の豹変の謎」というメインテーマ(勝手な命名)とプロットが、戯曲/舞台上演という形式にフィジカルなレベルで呼応していることだ。
性犯罪で投獄されたサド侯爵の行状は、家族の友人であるふたりの女性の会話によってうかがい知られる。信仰心に厚い彼の幼馴染であるシアミーヌ男爵夫人は、天使のような少年だった彼が悪人であるはずがないと信じている。リベルタン的生活を送るサン・フォン伯爵夫人は、サド侯爵の倒錯と瀆神に満ちた遊戯の様子を嗜虐的にシアミーヌに暴露する。
妻のルネにとって良人(おっと)はあくまでも良人で、モラル的な判断の対象にはならないらしい。「良人が悪徳の怪物だったら、こちらも貞淑の怪物にならなければ」という覚悟を持ち、「アルフォンスは誰も愛したことがないんです」「あの人は快楽の働き蜂」と保護者のような理解を示す。
良人との心のつながりを強調するルネは、彼を遠ざけようとする母モントルイユ夫人に反発し続ける。母娘の関係性は本作の〈裏テーマ1〉だ。サド侯爵をめぐる母娘間の緊張が全体を貫いている。夫への献身のあまり、脱獄した彼のSMプレー大会の共犯になることさえ厭わないルネ。その様子を密偵に探らせる母。
ルネは「想像できないものを蔑む力は、世間一般にはびこって」いるとして道徳規範にとらわれた両親を嘲る。そして、法と道徳と世間体を体現する母に向かってルネは、サン・フォン伯爵夫人と同じ言葉を投げつける。「アルフォンスは私だったのです」
しかし終盤にさしかかり母娘の対立と確執がようやく薄らいだころに皮肉な事態が起こる。
背徳の限りを尽くし売春婦や少年を痛めつけ、投獄されても懲りないサド侯爵はしかし、機知に富む面白い人で、よき配偶者でもあった。モントルイユ夫人は娘のことを思ってという理由からこの義理の息子を官憲の手で逮捕させて牢獄に入れた。しかしそのうち革命という決定的な時代の変化と自らの老境が重なり、サド侯爵へのまなざしが変容している。彼の行状などたいしたことではないと思えるようになっているのだ。(正しいことと正しくないことの)「その線は海の岸辺の、牛尾の差し引きで写る境のように、いつも揺れ動いているのではございませんか」
人間とは、二面性や多面性どころか、善と悪、聖と邪を両端に置くスペクトラムなのであり、これが時とともに、また関係性によって常に変化しているのだ。
みずからもサド侯爵の同類であると告白するサン・フォン伯爵夫人の言葉も、一義的な人物評や思考停止への警告であるように聞こえる。
「悪徳の女と聖女、お婿さん好みのお取合せね」「吸血鬼は親切で優しいものと決っています」「快い病気をむりにも治せよと、どうして患者を説得することができまして?」「サド侯爵は…残虐さがつまりやさしさで…」
人間の性質はスペクトラムである。これが〈裏テーマ2〉だとわたしは勝手に考えている。
そして最後には、サド侯爵夫人ルネのなかにも悪女と聖女がたゆとうていることがわかる。ふたつの裏テーマがメインの謎につながる。
革命勃発後の最終幕。ルネは12年間、監獄の夫に贅沢な食物を差し入れ続けていた。ところが、彼が出獄する日に突然修道院行きを告げるのだ! 妹アンヌとヴェニス旅行までして裏切りの限りを尽くした良人。18年間母親に別れろと言われ続け、自分は別れないと言い続けてきた。
ルネに何が起きたのか。
ルネが別離を決心した直接の原因は、彼が獄中で書いた『ジュスティーヌ』という小説を読んだことだ。ルネは、自分たちが物語の中に閉じ込められてしまったと感じる。書くことによってアルフォンスの魂はすでに牢から出ていたのだ。ルネや女たちの苦労を無駄にして。彼は女たちを閉じ込めて心を解き放ち自由になり、直に会えるようになった今になって、手の届かない存在になってしまったのだ。彼の勝手な自己解放と妻へ与えた呪縛をルネは許せなかった。良人の自由が「自分の幸せ」と語っていたルネは気づいていなかった。「自分の幸せ」がじつは夫の「不在」とそれを管理下に置くことにほかならなかったのだと。
そして緊迫の最終場面。侯爵の帰宅を告げる家政婦シャルロットは、その様子を聞かれ、醜く老いさらばえて乞食同然に見える、と正直に伝える。おそらくルネの差し入れと運動不足のせいで重度のメタボとなって戻ってきたのだろう。これについてルネは確信犯だったのだろうか。だとすれば彼女の闇はさらに深い。ともあれ、これを聞いたルネはなんと出所した夫を玄関で追い返すのである。
ルネはなぜサド侯爵と二度と会わないと決めたのか。この作品が舞台で上演されるための戯曲であることによって、その謎が解けると思う。
サド侯爵は18年間の不在(その間面会や脱獄はあったものの)ののち、いままさに帰宅(=舞台に登場)に登場しようとしている、つまり不在ではなくなろうとするその瞬間に、妻から永遠の決別を言い渡される。冒頭に述べたように、本作は、登場する女たちによって語られる不在の男、その場にいないことによって力を持っていた男の物語だ。
しかしじっさいに舞台に登場する間際、つまり戯曲内でその存在が具現化する間際に、彼の持つ魅力、魔力、求心力といったいっさいの力は消え失せる。良くも悪くもまるで神話のごとく「語られる存在」から、戸口も通れないほど醜く青白く太り過ぎ、「眼はおどおどして、顎を軽くおゆすぶりになり、何か不明瞭にものをおっしゃるお口もとには、黄ばんだ歯が幾本か残っているばかり」の姿への転落。
その姿は舞台にさらしてはならないのだ。ルネのためにも、そして語り合い闘ってきた女たちのためにも。
ルネは以前、良人をこう描写した。「だってアルフォンスは譬えでしか語れない人なのですもの」。醜い実体のアルフォンスは要らない。いや、無用の人間になってもらうためにメタボ製造用の差し入れをしたのかもしれない。もしそうなら最高の復讐ではないか。
6人の女性登場人物の台詞だけで創られるサド侯爵像は、言葉や抽象化の力、言い換えるなら不在の力を証明する。その力に比べれば本物・本人など失望の萌芽でしかなく、現れる直前に霧散したほうがいいのだ。
本作は、背徳と身勝手に対する教訓話でも、女性心理の矛盾や謎を突いた話でもない。
人は自分の心のなかの他者にかんしては勝手に自分のエゴを投影するものなのだ。そして信じたいものしか信じないし、心はいつも道徳や宗教や社会通念に縛られている。皮肉にもいちばん正直に見えるのが、彼女たちの言葉によってのみ造形されているサド侯爵である。人間とは空疎で浅薄で、深刻に考えるのもバカバカしくなるほどだが、それをネタに言葉の美を極めるかのようなこの戯曲が生まれているのも愉快な事実だ。
「舞台に登場する一歩前で出番をキャンセルされてしまう」顛末は、戯曲の構造でしか、存分にその滑稽さ、皮肉さ、哀愁を輝かしく表現できないに違いない。