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"推し"の憲法学者の話

アフガニスタンの邦人救出を契機として、安全保障に関する議論が活発になっていますね。こういうとき必ず俎上に載せられるのが憲法9条です。憲法9条をめぐる議論はとてつもなく紛糾しており、出口がなかなか見えないのが現状です。

通常、法律上の問題が生じたときには、とりあえず法曹や法学者の意見が尊重されます。しかし9条に関する議論になると、多くの国民から「また弁護士や学者が変なこと言っているよ」といった反応が寄せられます。また、与党の政治家も9条に関しては法曹や憲法学者の意見を軽視しているように思われます。憲法の問題なのに憲法学説の社会的プレゼンスが著しく低いのです。

……マズくないですかね、この状況。

このことについて、私が”推し”ている憲法学者、鈴木敦・北大准教授が鋭い指摘をしているため、以下に要約して紹介します。原文は「法律時報」2020年4月号の110頁以降に掲載されていますので、興味のある方は読んでみてください。

憲法学説のプレゼンスが低下したのはなぜ?

戦後の出発点として現実に全くの非武装状態にあった日本政府から9条という規範が打ち出されたとき、それが非武装だと解釈されたのはある意味で当然だった。しかし、9条は国連による集団安全保障が機能することを前提に盛り込まれたものの、冷戦によって安保理が機能不全に陥ってしまった。……(中略)…… 政府は制憲時から自衛権を否定していなかったのであり、占領が終結した後にも自衛権を行使する一切の実力保持は認められないとする法解釈を強固に維持し続けることがナンセンスだと受け止められるようになったのも致し方なかった。
自衛隊という実力組織は長らく9条の下に少なくとも法律上の根拠に基づいて存在してきたわけで、自衛隊創設以来の政府見解や種々の法令を向こうに回して違憲性を説き続けてきた憲法学者の議論に対する違和感が時にシニカルな形で現れるのも無理はない。もちろん世論に迎合して学説をかえればいいわけではないが、少なくとも多数の国民の理解を得られるような丁寧な説明が必要だ。

そもそも、9条を「完全非武装」として解釈するのは余りにも現実と乖離しており、解釈論として破綻しています。ところが、憲法学会では長らくこの破綻した解釈が採用されてきました。こうした「机上の空論」化した学説は、社会を規整するどころか政治家や国民から白眼視され、その影響力を失っていきました。

石川先生の議論は、自衛隊違憲論が通説であり続けたことが防衛力の増強を目指す政治的な動きを押しとどめてきたとするものだが、国会や内閣の有権的解釈とは前提を異にする学説がそうした力を発揮してきたことを実証するのは難しいと思う。

これに対して石川健治・東大教授は、自衛隊違憲論(=自衛隊の正統性を奪う議論)自体が軍事増強を目指す政治的動きを抑えてきたと主張し、憲法学説のプレゼンスを積極的に評価しています。

しかし、これまで与党の政治家が「自衛隊違憲論もあることだし自衛隊の装備は拡大しないでおこう」などと一度でも考えたことがあったでしょうか。自衛隊は、国家の防衛・治安維持というシビアな任務を課せられた組織です。防衛装備が拡充されるとすればそれは安全保障上必要だからであり、防衛装備が縮小されるとすればそれは安全保障上不要だからです。こうしたリアリスティックな必要性と比べたとき、自衛隊違憲論という一学説が与えた影響はきわめて限定的といえるでしょう。

結局のところ、自衛隊違憲論がもたらしたのは、憲法学説の空論化と、政治部門や一般市民からの冷笑でした。やはり現状において、9条をめぐる憲法学説の「規整力」を肯定するのは難しいと思われます。

※ なお、私は石川先生の憲法の授業を学部・大学院を通じて受けてきたのですが、彼が授業中に9条に言及することはほぼありませんでした。あっても学説状況を軽く紹介するくらいだったと記憶しています。おそらく彼は、9条をめぐる憲法学説の限界を十分に自覚していたのでしょう。ただ、憲法学説に意味を与える「アクロバティックな試み」として、上記の仮説を提示したのだと思います。念のため以上のことを付言しておきます。

憲法学説のプレゼンスを取り戻せ! 

確かに、解釈論と運動論を完全に区別するのは難しい。しかし、解釈学説自体が一定の政策的判断として、あるいは政治的付随効果を期待するような形で打ち出される場合もしばしばあったように感じる。集団的自衛権をめぐる議論においても、精緻な分析や解釈論に基づく問題の指摘ばかりではなく、集団的自衛権そのものを危険視する立場から、政府の法整備を「戦争法案」だと断じて国民の感情に訴えかけるような主張が散見された。
長谷部先生の「表立ってはいえない憲法解釈論」(『Interactive憲法』〔有斐閣、2006年〕143頁)という刺激的な論考がある。そこでは、9条を非武装平和主義条項であると理解して今日もなお自衛隊違憲論を唱える解釈学説は、解釈の妥当性などよりも、自衛隊の規模や活動範囲を抑制するという「社会的インパクト」を重視して展開されてきたのではないかという指摘がされている。仮にそうした議論があるならば、それは運動論の解釈論への浸潤であり、憲法学説に本来期待されている役割とは異なる。解釈論は基本的に「憲法が何を要請しているか」という問題を扱うものであり、またそこに留まるべきではないか。
冷戦期の東西対立の中で戦後憲法学の一部がマルクス主義の強い影響下にあった事実は広く知られているが、そうしたイデオロギー上の主張や対立がとりわけ9条をめぐる言説において強く現れたことも、のちの憲法研究者に対する冷ややかな反応に影響した部分があったのではないか。

では、完全非武装主義のような現実離れした9条解釈が展開されてきたのはなぜでしょうか。鈴木氏はその理由として、憲法学者が「社会的インパクト」や「イデオロギー闘争」を妥当な解釈よりも優先させたからだという仮説を紹介しています。つまり、憲法学者は社会運動を解釈に持ち込んできた(=解釈論と運動論が混同されてきた)わけです。

それゆえ、憲法学説のプレゼンスを取り戻すためには、社会運動としての憲法論(運動論)と法解釈学としての憲法論(解釈論)を区別したうえで、丁寧に解釈論を組み立てていく必要があります

憲法学説2.0 

9条をめぐっては、憲法学が専門性をもって論じることができる法解釈的問題と、必ずしもそうではない安全保障上の問題が綯い交ぜに論じられており、憲法学者による後者の議論までもがある種の専門性と権威を持つものとして扱われてきた印象を持っている。9条という法規範に照らして合憲・違憲の判断を示すことは憲法学に期待されている役割である一方で、9条自体の効用や具体的な安全保障政策について憲法学が論じられることは限られているのではないか。その中で、自衛隊違憲論を維持してきた学界通説が、同じく長きにわたり自衛隊を合憲と捉えかつ必要としてきた世論に対して真剣に向き合ってきたのか疑問に感じる。今後の日本でいかなる安全保障政策が必要なのかという問題について、憲法学者と一般国民の言説の重みに歴然とした違いは無い。9条2項の歯止めが無くなると日本は軍事力を統制できなくなるとか、集団的自衛権を容認すると対米従属が進むといった懸念は、憲法学者からもしばしば示されているが、憲法学が専門性を以て論じることができる事柄なのかは疑問に思っている。その意味で、憲法学が解釈論や立法政策といった自らの専門性を自覚しながら、他の学問領域の専門知との交流を通じて、どのようには多様な民意を反映して公論に鍛え上げるか、ということも意識されるべきだ。

解釈論としての憲法学説を緻密に展開していくためには、「憲法学の専門性は何なのか」を正確に把握しなければなりません。解釈論と立法政策を領分とする憲法学が、高度に専門化・体系化された安全保障論をカバーするものでないことは、少しでも安全保障について調べたことがある人ならば理解できるでしょう。

ところが、憲法学者の「机上の安全保障論」に一定の権威性が付与されているのが現状です。これは私見ですが、戦後の憲法学(およびその周辺の学問領域)は、一切の軍事力を排除するという考えに固執し、いかにして軍事力を統制するかの議論から目を背け続けた結果、安全保障が独立した学問領域であることを忘れてしまったのではないでしょうか。

妥当な解釈論を構築していくためには、こうした態度を改め、憲法学の限界を自覚したうえで、他の学問領域の知見を積極的に取り入れていく必要があります。

"推し"学者を持ってみる

ここで紹介したものは全て研究会での発言です。この研究会には著名な憲法学者である横大道聡先生も参加されていました。権威ある同業者の前で伝統的な憲法学説を真正面から批判することは非常に勇気を要したでしょう。しかし、それだけ強烈な問題意識を持つ憲法学者がいて、それを積極的に発信しているというのは、同じ問題意識を共有する者として大変心強く感じます。

ということで、私は鈴木准教授を激推ししているのですが、”推し”学者を作ると"追っかけ"の過程で専門知識が身についていくので大変オススメです。皆さんもぜひ。

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