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SDGsはだいぶマシ
今日、SDGsという言葉を聞かない日はない。
企業理念やスーパーで売られている製品、テレビ番組まで、あらゆる場面で見聞きする。
懐かしく思い出すのは、エコマークである。
エコマークについて
エコマークとは、
「生産」から「廃棄」にわたるライフサイクル全体を通して環境への負荷が少なく、環境保全に役立つと認められた商品につけられる環境ラベル
である。
環境に良いとされる商品に付いているマークで、地球を手が抱くような形をしている。
以前はよく見たけれど、最近は見る機会が減った(これは普段手に取る商品の違いから、人によって異なる感想であろうが)。
なお、基本的には日本国内用のマークで、世界中で通用するわけではない。
動物の気持ち
ところで時々、動物の待遇に文句を言う人がいる。
動物園に対し、自由を奪って見世物にする動物虐待の施設だとか、飼い犬に服を着せる行為に対し、動物は野生では服など着ない、人の都合で服を着せるのは良くない、というような文句である。
人間の考え方を動物に押しつける行為で、人間のエゴだ、というわけである。
動物にある程度人格を想定したこうした批判的な意見を聞くたび思うのは、動物の気持ちの本当のところはわからない、ということである。
動物の本音はわからない。
自由に動き回れる範囲は狭いけれど身の危険はなく、餌が自動的に出てきて飢える心配もなく、恋人まであてがわれるなんて最高! と思っているかもしれないし、毎日サバンナを走り回る夢を見て、目を覚ますたび檻の中の自分に気付いて絶望しているかもしれない。
どちらの気持ちかはわからないし、その中間かもしれない。
しかし確実なのは「動物は動物園より自然の中にいたいのに閉じ込めるなんて良くない」という意見が、動物の気持ちを勝手に推し量っているという点である。動物は閉じ込められていたくなんてないのに、という意見は、その人の勝手な推測の押しつけである。
「動物は、動物園にいた方が幸せだ」という意見が人間のエゴならば、「動物は自然環境にいた方が幸せだ」という意見も同様に人間のエゴである。
生涯檻の中に閉じ込められたシマウマと、生まれてすぐ天敵に食べられたサバンナのシマウマのどっちが幸せかを、勝手に決めてはいけない。
「ちきゅうにやさしい」のエゴ
話をエコマークに戻すと、エコマークには、「ちきゅうにやさしい」というキャッチコピーが添えられている。
これは、人間のエゴである。
どういうことか。
地球に人格を想定しているわけだけど、地球がどう思っているかはわからない。
森林伐採はムダ毛の処理くらいの気持ちで、人間はよくやってくれてありがたいと思っているかもしれないし、痛がっているのかもしれないし顔を虫がうろうろしている感じで気持ち悪いと思っているかもしれない。あるいはそよ風が吹く程度で何も思っていないかもしれない。
何が地球にとって優しいのかを、人間が勝手に決めている点がエゴなのである。
(そもそもその前に地球の擬人化の是非が問われるのだけれども)
また、なぜエコマーク制度があるかというと、人間が住みやすい環境を維持するためである。
環境を破壊しすぎて人間が住めない世界にしないための制度である。
それを、地球のため、と称しているこの傲慢さ。
「あなたのためにやってるのよ」と言いつつ自分の都合を押しつける気持ち悪い大人と同じ構図である。
SDGsの開き直り
一方SDGsはどうか。
SDGsを日本語にすると、「持続可能な開発目標」である。
開発とは、森林や石油、天然ガスなどの資源を採ること、また、それらを利用して発展していくこと。
環境破壊しすぎてはいつまでも開発し続けられないから、開発し続けられる程度にぼちぼち自然を扱っていこう、というわけである。
徳川家康が言ったとされる、百姓たちは生かさぬよう殺さぬよう、と同じ。
エコマークもSDGsも、今後も人間が資源を採れる、過ごしやすい地球を維持していこうという人間中心の発想なのは同じだけれども、SDGsは開き直っている。開き直っている点が「マシ」である。
またSDGsには、「貧困を無くそう」「飢餓をゼロに」のような、一見直接地球環境には関係しそうにない項目も多くある。
これは、南北問題を含めて考えた結果だと思う。
南北問題とは、だいたい地球の北半分に先進国が多く、南半分に発展途上国が多いことから名付けられた、先進国と発展途上国の格差問題である。
オゾン層を例に取ると、まだ地球環境なんて考えもしなかった時代、先進諸国がガンガン温室効果ガスを出したため、オゾン層は破壊され薄くなってしまった。
やっとその重大さに気付いた人類は、温室効果ガスをなるべく出さないようにしようと思ったのだけど、発展途上国からすれば、先進諸国が開発しまくったせいでオゾン層は薄くなったんだから責任は先進諸国にある、にもかかわらず発展途上国にも温室効果ガスを制限せよとはずるいではないか、と思ってしまう。制限を求められるだけでなく、海面上昇などの被害を被っている発展途上国からすればなおさらである。
先進諸国は散々好き勝手に資源を採っていたのに、これからは控えようぜ、お前らも控えろよなと言われた発展途上国がずるいと思うのは当然である。
だからSDGsでは、みんなが同じように利益を受けられる前提で目標が決められている。
みんなで幸せになろう(だから発展途上国の人も一緒に我慢しよう)というわけである。
目標が定められたからと言って発展途上国の気持ちが収まっていないのは、2022年11月にエジプトで開催されたCOP27(気候変動枠組み条約第27回締約国会議)の中で、発展途上国の意見により、気候変動で被害を受けた、被害を受けそうな発展途上国のために基金を作成しようと決まったことからも見てとれる。
基金とはみんなでお金を出し合って特定の目的に使う貯金である。これまでも国から国への「援助」はあったけれども、国同士のパワーバランスによるし、単発なものになる可能性もある。基金であれば目的もはっきりしているから使いやすいし、恐らく基金を管理する事務局によって使える・使えないが決まるから比較的公平になる(はずである)。
SDGsのいいところ
邪推込みで考えてみたけれども、とはいえとはいえ、仮にそうだったとしても、SDGsの目標そのものを否定する人は少ないだろう。
貧困は嫌だし暴力のない世界がいいし、衛生的で水不足に困らない世界がよいに決まっている。
程度の差や、自分とは直接関係のないかもしれない項目だとしても、そちらに向かっていけば間違いない、という目標はとてもありがたいものである。
「認定ビジネス」化への懸念
かといって心配が無いわけではない。
SDGsに絡んで儲けようという人は大勢いるだろうし、SDGsに貢献できると思って購入した商品がライセンスなどを受けていない海賊版の可能性にも警戒しなければならない。
現に、「SDGs 認定」で検索すると、何やら聞いたことのない団体がヒットする。
SDGsのアイコンやロゴを使用する際、商用利用や資金調達目的の場合は国連に直接許可をもらい、ライセンス契約を結ぶ必要がある。それ以外の情報提供目的の場合、許可は不要。つまり、国連以外の他の団体に認定してもらう必要はない。
が、認定ビジネス・資格ビジネスが大好きな人たちは、SDGsにおいても同じ考え方をするかもしれない。SDGs認定企業、というお墨付きをもらいたい、と思うかもしれない。
SDGsは、国や企業だけが取り組めば良いものではない。
誰もが自分で考え、自分で行動する必要があるものである。
認定を受けておけばオッケイなんでしょ、という考え方では駄目で、取り組み続けなければならない目標である。
心配はあるものの、やっぱりSDGsはだいぶマシだと思う。
開き直ったからと言って好き勝手していいわけではなく、むしろ責任を引き受けたとも言える。
マシ、と書くと、まだ否定的なニュアンスが残っているけれども、猫も杓子もSDGsな今の世の中に漠然とした不安があるからで、目標そのものはとてもいいと思っている。
だから自分で考え、できることから貢献を。
名角こま