『主旋律』 と 『対旋律』
去る2018年5月19日に、「禁断の対旋律(オブリガート)」と題しました Yamaguchi DTP Bee 第8回 を開催いたしました。
某アニメを模したようなタイトルやキャッチイメージから、〈行き詰まった地方の勉強会の悪あがき〉的に感じられた方もいらっしゃると思います。それらの意識が全くなかったわけではありませんが、この『対旋律』という考えかたをお伝えできたらなという気持ちからタイトルに使いました。
以下、完全に個人の見解です。何の根拠もありません。あしからず。
ふたつの『旋律』
物事や事柄、手順や方法などには、セオリー・本流・王道・一般的・器量好い などと呼ばれるような「正統的なもの」が存在します。
これらは「たったひとつの」ではありませんが、常々みなさんの道しるべとなることがあるでしょう。この「正統的なもの」は、その世界を代表しているかのような存在感があるので、私にはこれらが『主旋律』として聞こえています。
その『主旋律』とは別に、エキセントリック・亜流・奇抜・型破り・不器量と呼ばれるような「正統的ではないもの」も存在しうることがあります。
これらは総じて〈『主旋律』と共にする〉というよりは〈『主旋律』と対をなす〉ようなイメージがあるので、私はこれらを『対旋律』として感じています。
『対旋律』は「マイノリティ」か
では実際に『対旋律』にあたるものは、全て「マイノリティ」側といえる存在でしょうか。
SNSなどではよく〈いい話〉として「家族・親とはかくあるべき」や「この手法が神髄」といった『主旋律』が流れてきます。とてもキレイな音色で心が動かされることもありますが、『主旋律』の多くは、おおむね『対旋律』と比べてキレイで大きな音であることが多く、表面化されやすく大切に扱われがちであることも事実です。
それに比べ『対旋律』は、音の大きさや表面化の機会から、『主旋律』よりも少数に感じてしまうことが多くあります。しかし、『主旋律』に隠されているだけで、実は身近に多く存在しうるかもしれません。そうなれば、それは「マイノリティ側」ではなく「マジョリティ側」と言えてくるでしょう。
『対旋律』として
私が勝手に「『主旋律』シンドローム」と呼んでいる状態があります。純粋に『主旋律』だけを聴き続けていたい場合におこりがちな、『対旋律』が次第に邪魔になってきたり、『対旋律』を聞く意味を見失ってしまう状態のことです。
※「『主旋律』シンドローム」が顕著になってくると…
自分が『主旋律』側にいる場合:自己肯定が強くなりすぎてしまいがち・自分の中の正解を強要してしまいがち・溺れてしまいがち
自分が『対旋律』側にいる場合:自己否定が強くなりすぎてしまいがち・自分の中の正解を破壊してしまいがち・潰れてしまいがち
しかし、『主旋律』がより活きている場面では、そのかたわらに『対旋律』の存在があることが多いのではないでしょうか。また、『対旋律』の存在こそが『主旋律』の土台としてあるのではないでしょうか。
学校などの集団生活に存在するグループ、家族のあり方、ものづくりの手法など、ありとあらゆるものに存在する『主旋律』と『対旋律』。
ご自身が『対旋律』側にいて、それについてマイナスの気持ちを感じられている方がいらっしゃいましたら、ぜひそれはマイナスではないことを、ご自身にお伝えいただけたらと思います。
また、あまり表面化されにくい『対旋律』側に居ることが多い私ですが、これからも『対旋律』側にも存在する「良さ」を伝えていけたらと思います。
最後に、『主旋律』と『対旋律』(って言っていいのかな?)の織りなす旋律が美しいナンバーをご紹介。今回はこれにて。