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【小言】子ほめ条例の表彰に疑問符

最近、過去の人生を振り返るとADHDもあるけどここまで精神的におかしいのは過去の出来事なんじゃねえか。そう考えてくると愛着障害とかも否めないと思っているnasujinです。

そんなことをふと思っていた時、たまたま毎日新聞で見つけた記事を見つけ、確かにあったけど…正直な…って疑問符がつきました。

栃木県下野市では子ほめ条例(児童生徒に関わる表彰条例)の一環で義務教育期間に生徒に学芸、体育、親切、奉仕、努力のいずれかを表彰して健全な心身を育てさせようという式典が行われているという記事で、子供たちや、過去に表彰を受けた大人たちはどう思っているのだろうかという記事です。

この表彰式典は全国各地で行われているらしく、私の地元でも下野市同様の条例の一環として毎年行われています。
もちろん私も表彰を受けましたが、正直嬉しくなかったという気持ちが非常に強かったです。

私の地元では、小学校4年生~小学校6年生(ただし、中学生時に市外学区から編入入学してきた場合は中学生も含まれる)を対象に表彰されていました。
下野市と似ていて、学芸、体育、親切、健康、努力の各5分野に分かれていました。
しかし、表彰できる人数に上限があるので3年間かけてやるしかありません。

学芸、体育、健康は実績があれば該当しますし、親切は学校担任や周囲の評価があれば表彰されます。

しかし、努力に関しては元来何かしらに努力しているという学校担任からの評価があればそれはそれでいいと思いますが、実際それぞれに該当もしない子は結局、努力賞で表彰せざるを得ないんじゃないかという疑問が残るのです。

小4、小5あたりで努力賞ならまだ評価されている可能性はあるんじゃないかと思うところもありますが、最終学年、すなわち小6の時に努力賞だと「実は学校からは見捨てられているんじゃないか、何も該当しないから仕方なく最後の年に努力賞にしてしまえばいいと先生は思っている」と勘ぐってしまう子もいるんじゃないかと思います。

私自身もそうでした。
小6で努力賞。しかも学年内は自分だけ。
他の子は他の賞で複数人いるのに、なぜ自分だけ最後の年に努力賞なんだろうて思いました。
しかも、当時健常だと思っていた私は、小5の時に表彰されると思っていたら知的障害を持った子が先に表彰されました。

当時は、どうして…とか、そんな…あいつよりは…って思うことがありました。

それしか考えられませんでしたが、いまとなっては、小5、6と担任が同じで担任もいじめに加担していたので、こいつは最後の年でいいやと見捨てていた説が浮上してきました。
すなわち、学校側も存在否定していたんじゃないかと思うと自分の障害の起因におもいっきり結びつきますね。

↓【参考】過去のいじめの末路についての記事はこちら↓

なぜ小6で努力賞にしたのかという推薦理由が知りたいですね…
個人的にこの小6で努力賞≒(もっと)努力(しま)賞という概念でしか考えられないし、ダメ人間、評価に値しない生徒など負の烙印を押されている感じしか否めません。
いじめを受けた身としては、家族やクラスからも負のレッテルを貼られている感じしかありませんでした。

なぜその学年時にその賞を表彰させようとしたのかという推薦要因を開示するべきなのではというのがこの条例における疑問符なのです。
特に努力賞は表向きとしては何かを頑張っているからということなのでしょうが、本音として努力もしていないし、努力賞以外に該当しないから(条例上)仕方なく置いてあるだけ、大人たちのいい都合として設けたのではないのか。これが本当ならこういった条例や表彰はいらないと思うのです。

勘ぐりすぎているかもしれませんが、本当に何かに努力している生徒がいるなら表彰するべきですが、何にも該当しないから仕方なく。ていうのは本当になくなってほしいです。

幼少期から都会に出るまで身近な人から褒められたこと、存在を認められて、仲間として迎え入れてくれたこと、人を頼ること・頼られるということ…そのような経験は多くありません。
常に叱られ、存在否定され、邪魔な存在として排斥され、それが故に孤独で人を頼ることなく常に一人で抱えて生きてきたほうが非常に数多く、結果そのまま社会に出たら適応できず、生きづらさを覚え精神障害を抱え今を生きているのです。

結局子ほめ条例による表彰式というのは一種の通過儀礼に過ぎないのでは…と


小言のつもりがクソデカボイスで語りすぎました。

fin.



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