「ギブアンドテイク」について考えた。そこからさらに考える「ギブアンドギブ」の深み。
「ギブアンドテイク」の意味
以前、このブログでこんなことを書きました。
「私のいう『シェア』とは、惜しみなく持ち寄って共有し、見返りを求めず分かち合うギブアンドギブ! ひたすら出せる人は出し続けるものです。人と奪い合う競争ではありません。」
いやはや、読み返すと高らかな宣言のようで、ちょっと気恥ずかしいですが、全文はこちら↓
さらに、自分で言っていて、なんかちがうんだ、なんか伝わっていないのだと思う「ギブアンドギブ」という話を、意味を、ゴールデンウィークのど真ん中の那須で考えていました。
「ギブアンドテイク」ならまだしも「ギブアンドギブ」とは「与え続ける」と言ったものの、限度があるだろ? 与え続けてすべて失っても、まだ相手への信頼を維持できるのか? だいたい、与えるモノがなくなったら、どうするんだ?? というフツウに考えてそう思うでしょう。
「ギブアンドテイク」についてググってみた
過日、若いスタッフに「沖縄返還」が通じずビックリでしたが、まあそういうことでしょう。「お互いさま」などという言葉は聞いたことがない、もしくは「サザエさん」あたりで言葉は見たことがあるけれど、なにそれ? という人が年長者でも大半かもという昨今。
とくにいわゆる「学生運動」(お若い人、ググってみて〜)とか「全共闘」とか「赤軍派」とか、そのあたりをリアルに体感してきた高齢者と、ソーシャルなんたら……「SNS」(高齢者、お孫さんに聞いてみて〜)ネットネイティブな世代とは、言葉が相当に違う。大混乱ですよ、それぞれに話が通じているように装っているけれど、その言葉の意味を掘り下げたり、実践したりする実社会では、大混乱。
とくに、中間管理職的な人たちに精神的な疲れが溜まりに溜まっている。上と下の世代の感覚や言葉の行き違いを、調整したり翻訳したりしながらの実務は、これまでの就労の域を超えています。向精神薬を服用しながらの就労がもはやそう珍しくないという悲惨。
話が横道にそれました。で。そこでとりあえず近山もまずは「ギブアンドギブ」を再考し皆様と共有するために、その元々にある「ギブアンドテイク」についてググってみました(笑)……でた。ぎぶあんどていくの意味……
「相手に利益を与え,自分もまた利益を得ること。互いに取るものは取りながら妥協・協調すること。」
なるほど。一見悪くない。では、どのあたりを問題として私は「ギブアンドギブ」と言いたいのか。それはなにを指しているのか。深掘りをしてみます。
寅さんの世界が好きか?
まず、近山がこの「ギブアンドギブ」を語りたいのは、私の仕事でもある「まちづくり」の話なんです。まちには高齢者、障害者、社会的な弱者と言えば子どもや母親までが暮らしていて、当然ながらそういう人たちを含む「暮らしの創造」です。
いや、むしろ、暮らしのあるまちには、弱者といわれる人たちのほうが多い。そして、これから日本はしばらくの間、超高齢社会になる。
そこに、父親が入らないのは差別じゃないの? という話は、またの話にさせていただき、続けます。
先に調べた「ギブアンドテイク」には、「利益」という言葉が書かれていて、「互いに取るものは取りながら」とも書かれている。となると、「利益」ってなんだ? 「取るものは取りながら」って、取れるものがない場合はどうなるんだ? という疑問がある。
これを個人間でいえば、「慈悲」とか、もはや死語であると思われる「お互い様」になるだろう。ご存知ですか? おたがいさま。
慈悲やお互い様が通じた社会が、昔はあったように言われることがあります。現代はそういうものが失われてしまった、という嘆きとともに。私も個人的にそう感じることもあります。けれど、じゃあ、寅さんの世界が好きか? ああいう庶民の暮らしを取り戻したいか? と言われると絶対嫌。
個人・近山は、過去の社会の美しさや、美徳といったこと、温かさや情といったものについて、否定はしないし、むしろそれによって子どもだった頃の私は村落の皆様に助けていただき、生きてくることができたとは思っています。でもね、それは多少私が恵まれた環境にあった。心ある地域住民がいた、ということです。
昔がよいといったって、それは娘を売り飛ばすことで他の家族の命をつなぐような社会であったこともあり、昭和時代は常に女はかなり不平等に扱われてきた社会であり、近山の目から見た寅さんは笑えない。居心地が悪い世界でした。寅さんファンがいたらご容赦ください。
私たちは「しあわせ〜!」と実感できるのか?
私はやっぱり、昔より現状では社会制度は整い、多少不平等も制度的には修正されてきたと思えます。高齢者をめぐる環境も、医療も日本は世界に誇れる機能を整えあると、現場で実感します。
ですが、です。法律が出来て、機能が整ったりはしたものの、相変わらず個人の頑張り、個人資産、自己責任という個人個人個人……。本当にそれでこれからの社会は成り立っていくのか? 社会は成り立っていったとして、私たちは「しあわせ〜!」と実感できるのか?
かなり、話が広がってしまったところで、字数がつきました。このブログをディレクションしている方から、長くて2000字まで! ときつく言われており、この先は次号で。
前回、次回は「『コミュニティプレイスあたご』のさらなる魅力的で具体的な取り組みについてご紹介します」と書いて終わったのでした。けれど、その魅力をお伝えするために、ちょっと遠回りしております。気長におつきあいくださいませ!
(20230519−22)