トイレときどき花子さん 壱

三階の女子トイレ。入ったところから三番目のトイレのドアをたたいて、
「怖くないよ、出ておいで」と言ったら花子さんが出てくるという都市伝説。時代の流れと伴って変わっていくこの都市伝説は、とある中学校でも流行っていた。

とある中学校で、今日も一人が、女子トイレに都市伝説を試しにやってきた。名前は江本千夏。クラスの皆が都市伝説を信じている中、一人だけ信じていない中学二年生。自分の目で見たもの以外は信じない主義で、トイレの中から人が出てくるという、花子さんの都市伝説なんて、端から信じれない。だが、自分で確かめもせずに疑うのも癪に障り、今、三番目のトイレの前に立っている。
信じてはいない、そんな馬鹿な話があると思ってはいないけど、いざ実際にやってみるとなると、なんだか緊張してしまう。
「何を緊張することがあるんだ私…!普通に考えていないじゃんね!」
頬っぺたをたたいて自分に活を入れて、ドアを優しく三回たたいてみる。
「怖くないよ、出ておいで」
そう言って、しばらく物音ひとつ立てずに待った。三階には誰もいないから、異常なほど静かだ。かすかに聞こえてくるのは、体育館で練習しているバレー部のボールの弾む音ぐらい。
「なんだ、やっぱ何もないじゃん」
しばらく待っても何一つ無かったので、心なしか安心しながら、千夏はトイレを出ようとした。その矢先。
三番目のトイレの奥から、ドタバタと走るような音がした。
はい、はーい、と何者かの声も聞こえてくる。
段々とその音と声がボリュームアップしてきたと思えば、突然ドアが開いた。
「ごめんってもうちょっと待ってくれよお!」
勢いよく顔を出したのは、世に言う花子さん…と言うわけではなく、ノーセットでもじゃもじゃな髪の毛で、目の下にはクマだらけ。手にはくしゃくしゃになった原稿用紙と万年筆。昔の文豪のような着物を着ているが、相当走ってきたのか、はだけている謎の男だ。
千夏は、目を白黒させながら、その文豪らしき人を見つめていた。
「は、はなこ…じゃない!?」
「花子!?私は加治屋廉太郎だ!あともうちょっとで書きあがるんだ待ってくれ…って編集者じゃない!?」
「「誰!?」」
女子トイレの中に、二人の声が響き渡った。
「だから私の名前は加治屋廉太郎だと言っただろう!?」
謎の男…廉太郎は食い入るように言う。
「聞いた聞いた!それはもう聞いた!違うの!そういう誰?じゃなくて!」
そういう意味の誰じゃないんだと、千夏は必死に弁解する。
「と言うかお前こそ誰だ!」
「江本千夏です!」
廉太郎は、動きを止めて、頭の思考回路をフル回転させて記憶をたどる。
江本千夏。そんな名前の知り合いはいない。
「誰!?」
「だから江本千夏だって!」
千夏は食い入るように言う。
「それは今知った!そういう誰?じゃないんだよ!」
そういう誰じゃないんだと、廉太郎は弁解する
「私と同じことするなよややこしい!一回冷静になろ!」
千夏がそう言うと、廉太郎も落ち着きを取り戻した。
「なんなんだいここは…箱がいっぱいじゃないか」
廉太郎は辺りを見渡しながら呟いた。
「ここはトイレですよ」
千夏がトイレのドアを開けて、便器を見せる。「本当だ」と興味深そうに廉太郎はまじまじと見つめた。
「あなたは何でここに?」
千夏が廉太郎の顔を覗き込んで聞くと、廉太郎はからかうように笑って答えた。
「何でも何も、君が私を呼んだんだろう?」
「呼びはしましたけど…別にあなたを呼んだわけじゃあ…」
千夏は困ったように言葉を濁らせてそう言うと、廉太郎はまた笑って言った。
「すまんすまん、正直なところ、私もなんでここにいるかわからない。編集者から逃げていた時に、お前の声が聞こえてきたから、その声の方まで走ってきたらこうなったんだ」
「編集者…小説家さんなんですか?」
「まあ一応な。締め切りがもう十分後ぐらいなんだが…なかなかにタイトルが決まらなくて…捕まる前に逃げていたんだ」
くしゃくしゃになった原稿用紙のしわを伸ばして、廉太郎は千夏に原稿用紙を見せた。本文は達筆で、いかにも小説家らしい。ぽっかりと、題名部分が空白だった。
「そうだ、ここで会ったのも何かの縁。タイトルを考えてくれないか?」
「ええ!?私が!?」
千夏は目を丸くした。
「ああ。もう五分ぐらいしか無いから…ぱっと考えたのでいいよ」
「えええ、そんな適当でいいんですか!?」
「その一枚目軽ーく読んで、なんとなくでいいから!」
「え、ええええ…」
千夏は軽ーく原稿用紙に目を通した。妖怪たちが、冒険をする話だ。
思考回路をフル回転させる。
「妖怪…大冒険?」
千夏がぼそりと言うと、廉太郎は目を輝かせた。
「妖怪大冒険!素晴らしい!それは盲点だった!」
廉太郎の冷たい手が、千夏の手を握る。
「え、あまりにも単純すぎませんか…!?」
「いや、単純でストレートなタイトルだからこそ、人間の心を惹くものなのだよ!締め切りに追われすぎていて、思いつかなかったよ!ありがとう千夏とやら!私は原稿を出してくるよ!」
廉太郎は、ぎゅっと手を握り締め、三番目のトイレのドアを開けた。
「また近いうち会えたらいいな!」
そう言うと、廉太郎はトイレの中に入った。
ばたん、とドアが閉まる。慌ててドアを開けてみると、そこにはもう誰もいない。便器が一つあるだけであった。まさかと思って便器のふたを開けてみても、ただの水と目が合うだけだった。
「今の、何だったんだ!?」
千夏は意味が分からなくなって、女子トイレを飛び出した。
花子さんの都市伝説をやってみたら、確かに人は出てきた。でも、小説家だった。意味が分からなくて、この日の夜、千夏は眠れなかった。

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