逍遥日記#33 身の丈
跂つ者は立たず
跨ぐ者は行かず
冬の乾いた昼下がり、空には廃墟のような月が高く浮かんでいた。吐いた息が白く溶けた。黒い制服の、下校中の学生たちが肩を寄せ合って、大きな影みたいにゆっくり歩いていた。
いつも通り何もない年明けだった。農場でのバイトが始まって、行きつけのスーパーから4割引きパンコーナーが消えて、近所の市民センターで配られていたモチを貰いに行って食べた。
バイト先では大ポカをやらかした。運転ミスで、玉ねぎの入ったコンテナを道路にぶちまけてしまった。好き勝手に転がっていく玉ねぎと、ボロボロの青いコンテナが跳ねているのがサイドミラーから見えた。誰かがケガをしたり、モノを壊したりしていないことを確かめてすぐに玉ねぎを拾い集めた。自分でも不思議なくらい落ち着いていて、行き交う車に合図をしたり頭を下げたりしながら然るべき対処をした。しばらくすると同僚と社長が通りがかって、ことのあらましを報告して謝った。事故の原因をカーブでの減速不足だと判断した社長は「危機感とか、怖いって感覚がないのかな」と私に言った。
ないわけないだろう。なんなら人より臆病だ。そもそも車の運転は苦手だし、運転中は気をつけることが多すぎて脳の処理が追いつかない(乗るな)。失敗したら損害の出るような仕事を短期バイトに任せないでほしい、とも思ったけれど、全ての原因は私の過失にある。それは反省しなければならない。
ひとつ気になっていたのが、事故を起こした後の心境だ。なぜ落ち着いていられたのか。パニックを起こすと思っていたら、やるべきことはすぐに実行できた(手は情けなく震えていたけれど)。しばらく考えて、自分の思考のクセに辿り着いた。
たぶん私は、なにかをする時に、それを失敗しないように上手く立ち回る方法よりも、やらかした時にどう動くかを先に考える傾向にあるらしい。思い返せば、受験も志望校に受かるための努力よりも落ちた後どうするかを考えていたし、就職に関してもどこにも受からなかった場合のことばかり考えていた。人付き合いも、仲良くなることより関係が終わった後どう離れるかを考える。そのリカバリーも別に大したものではないけれど、自分の能力に見合わないことをする時はまず上手くいかないものだという前提を持っていたせいで、変に性急な諦めグセがついている。
そのおかげで今回の事故も、というか車でコンテナを運ぶことになると知らされてからは、やらかした後にすべきことをうっすら頭の中に置いておけたのだと思う。もちろん、気をつけて運転しておけばそもそも事故に至らなかったことは言うまでもない。
当たり前だけれど、できることよりできないことの方が多い。そして個人的には、できることも周囲と比較したらその水準は低い。きっと今の生活も、そうした諦め、というか自己理解の延長なのだと思う。
些細な事故で何を偉そうに、と思われるかもしれない。でも持ち合わせの能力を考えたら個人の力で処理できるギリギリの出来事だった。キャパ以上の責任や事故の可能性を伴い作業を振られそうになったら私は真っ先に逃げる。なりふり構わず逃げる。身の丈に合わないことも自身への期待もしない。ヤンテの掟みたいに。
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