逍遥日記#26 そういうものだろう
朝起きて携帯を見ると、珍しくメッセージが何件か入っていた。「Happy Birthday!」がふたつと、「誕生日やんけ!」がひとつ。あとは電話帳に登録の無い番号からの着信が一件あった。
今日は誕生日で、バイトは休みで、外では雨が降っていた。
またひとつ年を取った。はて、年齢としての数字は増えているはずなのに年を「取る」とはどういうことだろうか。と思って調べてみたらどうやらこの場合の取るは加算するという意味での取るであるらしい。なるほど、前回の誕生日から今回までの一年を「取った」ということなのだろう。納得した。
noteで誕生日のことを書くのはどうにも祝いの言葉を求めているようでなんだか厭らしい気もするのだけれど、私的な日記でそんなことを気にしだしたらキリがないのでやっぱり書く。
とはいえ特別なことは何もしていない。変わったことと言えば、宗教勧誘の人が訪ねてきたことくらいだった。とても優しい声の女性で、以前仲良くしていたエホバの人のことを思い出した。悪いことをしている訳ではないのだから追い返すのも忍びなかったのだけれど、話がおそろしく長くなりそうだったので丁寧にお帰り頂いた。
朝起きて朝食(野菜炒め)を済ませた後はいつも通り昼まで本(『ゴリラ裁判の日』、面白い)を読んで眠くなったら寝て、雨の上がった午後は買い出しを兼ねた散歩をして暗くなるまでぼけっとしていた。スーパーでは野菜と米と卵がまだ高くて少し困った。割引パンコーナーの近くでケーキフェアが開催されていて、一瞬手に取りそうになったけれど表示価格を見て諦めた。代わりにそのとなりで大量に売れ残っていた78円のエクレア(2割引き!)をひとつ買った。
29歳。来年には30。無職・ニート界隈では30歳というのはある種の分水嶺のように見なされているように思う。人生の取り返しがつくギリギリの年齢らしいけれど、いまいちピンとこない。未来が当たり前に在るみたいな前提なのも理解に苦しむし、仮に半ニートから足を洗ってマトモな職に就いたとして、一体人生の何を取り返せばいいのか分からない。時間はどうしようもないとして、もしそれ以外がお金や世間体や安定した生活という類のものなら、それはたぶんそんなに大事なものではない。
多かれ少なかれ、ある程度の年齢を過ぎた後の人生なんて損なったり失くしていくばかりではないか。そんな中で運よく手にしただけのものに執着したり豊かな暮らしを目指すよりは、生きて死ぬことの不可思議に向き合っていたい。
家族と離れ、パートナーもいないからこんなことを言っていられるのだろうけれど。でも究極的にはみんな独りでしか生きていない。そういうものだろう。
スーパーでアジフライを買って、家に帰って味噌汁(10人前)を作った。これから毎食味噌汁を飲もうぜ。コーヒーは高くて買えなかったから牛乳を温めて、そのお供にエクレアを食べた。
もうすぐ誕生日が終わる。沸かした白湯を飲みながらこんな日記を書いている。これから少し本を読んで、眠くなったら寝て、今日と変わらない朝が来る。
そういうものだろう。