逍遥日記#34 マリンスノウ

 小学生の頃よく遊んでいたゲームが「レトロゲー」として紹介されていた時の切なさといったら。
 当時はこれ以上に新しいゲームなんてあるのかと思っていたけれど、なんのことはない。過去は記憶の中でずっと色褪せないまま新しくて、私が現在の切っ先で今を過去にし続けているだけなのだ。それでもあの日々の眩暈に似た感覚や若さは月日の移ろいの中に葬られることなく、深海の有機デトリタスみたいにどこかでひっそり積もっているのだと思う。
 鏡を見たら青年なのか中年なのかよくわからない生き物が写っていて、どうしてか無性に腹が立った。外見に中身が追い付いていない。老いるのは別にどうでもいい。生きることは何もかもを着実に確実に喪いつづけることだ。ただ精神と肉体の歩幅が合っていない。このズレにしっかり向き合わないとそのうち周囲に煙たがれるイタいおっさんか、あるいは思い出の中でしか生きられない半死人になるだろう。 
 ちゃんと、ではなく、丁寧に慎重に、年を取ろう。切なさの傍に幸福があったことを忘れないように。


 ずっと読みたかった『ある行旅死亡人の物語』を読んだ。多額の現金と来歴にまつわる不確かな謎を残してこの世を静かに去った女性と、彼女を追った記者たちのノンフィクション。死んだ人の過去をあれこれほじくり返すのは趣味が悪いと分かってはいるけれど、名前や住所といった身元を判別するための記号が朧気であっても、人には歴史が残るものなのだと奇妙な感覚に陥った。むしろ、今の社会の気味の悪い透明さというか、何をするにしても何らかの形で記録が残されてしまうのって結構異常なんじゃないか。
 当たり前だけれど、他人の人生というものはあまりに抽象的だ。何なら自分の人生ですら一貫した具体性を見出すことは出来ない。人の記憶は曖昧で不確かであるから、己を知る人間が全て死んだ後の世界では、生きた証と呼べるものは記録可能な記号の中にしか残らない。それを寂しいと思うかどうかは人によるけれど、その記号すら残そうとしなかった生とはいったいどのようなものであったのか。老年で孤独死するまで生きた彼女は何に支えられていたのか。
 この先、文章と言葉以外のものは特に何も残さず生きていくだろうから、これもまたじっくり考えないといけない。

 バイトが再開してしばらく経った。凍えるような寒さの中で太陽を待ちわびながら玉ねぎを収穫している。たどたどしい日本語を話すミャンマーの実習生が不意にかましたジョークで爆笑し、その衝撃でやや腰を痛めた。特筆すべきことのない談笑、なぜか毎日味噌汁を振舞う社長(ごはんくれ)。人と環境の進退。何もかも入れ替わり立ち代わり。あっという間の一年半。

 なんでいつもどこかに行きたがるのだろうか。

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