誰にも見られたくない独白、本音【初期の俺様キャラな文体の復刻版】【微注意】

あーあ。

文章あーあ。

「あーあ」しか出てこねぇよ。あーあ。

(意味不明)

***

俺は丸くなったよな? これでよかったんだよな? 俺は自分のnoteでの初期の「俺様キャラな文体」を改めて、ポジティブな作風に転向した。と思う。これでよかったんだよな?

誰か教えてくれよ。わかんないよ。


今、本稿で、俺は自分のnote初期の文体を再現してみてる。昔(と言っても半年前)の自分がどんなだったか振り返ってみようと思って。俺は半年前どんな文章を書いてたんだろう。あの時に比べて今の俺は、文章の良し悪しについて、特に語り手の態度の悪さについて、ずっとよく理解していると思ってる。

当時の文体を再現するのに、当時の文章を見ながら、見よう見まねで今書いてるw 自然には書けなくなってる。それはたぶん良いことなんだろうが。

当時の文章について、今の俺ならどう思うか? まあ、それはシンプルだ。よく言われる「読み手のために書くか、自分のために書くか」の問題であり、当時の文体(と、たった今のこの文体)は完全に「自分のため」の文章・書き方だ。そしてそれは当然読まれない。ただそれだけの問題だった。

(当時の文体の再現だから)他人の批判をするが、noteにおいて少なくない人が、自意識むき出しで(たった今の俺ほどではないにしても)自分の言いたいことをただただ気持ち良く言うだけの文章を書いていながら、一方で作家を目指してるなどと言っていて、ホント何も分かってねぇんだな、と思う。誰か言ってやった方がいいんじゃねぇのか? ま、そんな親切な奴、どこにもいないだろうが。この世の中に、そんな親切な奴はいない。せいぜい、俺の今のこの文章を読んででも反面教師にすることだ。

ホント、文章ってしょうもないな。たった今の俺のこのような(偉そうな)書き方がダメであることを、俺は、半年かけてだけど、自然と理解していったみたい。逆に言えば、当初はわかっていなかった。自分本位な文章を書くことの手応えの悪さを漠然としか感じられず、心の奥でどこかずっと不安だった。

でも当時は気楽でもあった。そのような書き方の中では、自分が全てだから。だから、最初期の俺のプロフィールの「俺は文章で人とコミュニケーションする気はない」なんてことが書けてしまう。

何も気にせず、自分の言いたいことを言いたい放題言うだけ、それが作文であると勘違いしていたんだ。

売れっ子作家のエッセイにはそういった側面が実はあって、それこそがまさに、素人が真似してはいけない態度であり、言うなれば「『大御所か』とツッコミを受ける」という表現がピッタリの代物だ。そして、実際プロにはそういう側面があるとはいえ、それでもやっぱり、意識か無意識か、絶妙なさじ加減が取られているものだ。つまり、言いたいことを全て言っているというほどではないのが実情なんだと思う。そして、俺の見立てでは、それは意識というより、どちらかといえばセンスで(無意識に)行われている。ま、そこらへんはちょっと感覚的な話だからいいや。

絶妙なさじ加減。俺はどうかって? たった今の俺のことなら、そんなモンねーよ。俺は今、暴走してんだよ。分かれ。

***

noteで俺は丸くなった。そうなることを俺は当初、頑なに嫌っていた。丸くなってみてどうか?

文章は、どちらかというと、自分の言いたいことを言う場所ではない。読まれたいのならば。そういう感覚を、今の俺は持っている。

文章で自分の言いたいことを言っても、なかなか読者に届かないんだよね......。散々試してみた結果、そう感じた。人は、驚くほど異なる内面や思考を持っているらしい。よほど似た経験や境遇がありでもしない限り、自分の言いたいことを100%の形で言っても、まあまず届かないだろう。これが俺の現在の認識だ。

だから、意見を主張するにしても、半分くらいは相手にすり寄った形で、客観性のある視点なりニュアンスなりにする必要が、当初思っていたよりもずっとあるということだ。でなきゃ、身内や関係者にしか読まれないというものだ。

(ところがこれが、肩書きがあり顔写真も載せているといった「本格っぽい雰囲気」の筆者の場合、全く話が異なってくることも、今なら俺は冷静に理解しているつもりだ。すなわち、文章の客観性がやや低めでも、そのような“きちんとした筆者”の場合は、見事にまんまと大勢に読まれてしまうんだ。そんな事例も目撃してきた。

今の俺なら、この世の中の文章界隈におけるその辺の事情が、手に取るようにと言ったら大げさだが、そうとでも言いたいくらい、以前に比べて見通せるようになった。そう思ってる。)

今現在の俺の認識は、もしまともに書くのであれば、半分くらいは相手に合わせ、自分本位の度合いを強くしすぎないようにちゃんとしっかり調整しなきゃいけないというものだ。そしてそれは、当初の俺が「そんなことは面倒だからしたくない」と思っていたことなんだ......。

これが、最近文章を書くことが以前に比べて億劫になっている理由の一つかな。

以前は、思ったことをそのまま書いてればよかったからな。たった今、こうしてやってるみたいに。楽ですよ、それは。

また、「面倒だからしたくない」という理由の他にも、「求められる一般ウケするような内容に迎合なんかしたくない」という突っ張りもあった。

それが、

形を変えて、

ーーつまり、語り手の俺様な態度を改めて、その点は読者に迎合するようになった代わりに、

今度は内容を意味不明にすることで突っ張ることにしたというわけだ。それが、最近の俺の一連の散文詩だ。

***

今、過去の自分の文章を読んでいる。ひどい態度のものだと思う。今見て「気持ちいいな〜」とかも思わない。あれはわざと大袈裟に誇張してたのも事実だし。

いや......「気持ちいいな」とちょっとは思う。やっぱり、確かにちょっとは思う。コイツ(当時の俺)、失うものがなくて、言いたいことをワガママにもそのまま言ってやがる。

まあ、分かってない奴は、そんな風に踏ん反り返った文章を書いていればいい。(過去の自分、そしてたった今現在の自分も含め)お前らごときにはそれがお似合いだよ。不器用な奴。

俺がなんで今回、自分のこんな未熟な人物像をリバイバルなんぞしたかと言うと、日頃コメント欄では俺は常識人でやっているために、肝心の記事投稿において、自分のてんで勝手な趣味趣向の内容を、そして時にワガママな内容を投稿して皆に見られることに恥ずかしさや後ろめたさを多少なりとも感じているからだ......。

それを払拭(ふっしょく)するため......そのために、いま一度俺の醜態を晒しておこうとか考えた。一応、そんなつもりで本稿を書いてる。

俺はコメント欄では神妙だが、内面ではこんな奴だ。いや、内面などというものは、下手したら誰だってこんな犬のクソみたいなものかもしれない。問題なのは、常人はそんなものを表に表現するなんてことなく、真っ当にやっていけるところを、俺は、それを全部ぶちまけるためにnoteを始めたという阿呆であったことだ。

もちろん、今では、そのやり方がワガママにすぎず、文筆として正当な手法ではないことを、先にも言ったが、理解している。だから、こんな俺様キャラは、note投稿初期だけのものとして葬っておけばいいのかもしれない。それが、恐らく、取るべき正解の道ではあろう。

しかし......。

しかし...。

俺にはまだ、自分勝手にやりたい欲があり、全然あり、作品が根本として売れ筋である必要がないこともようやくはっきりと認識し始め、一般読者が「???」となることを思いっきりやっていこうと思っている。

そこを、◯◯さんや△△さんに見られたら恥ずかしいし、その上、若干無理してるとも思われるコメントまでしてくれる好意に、俺はなんだか自分を反省しそうになる。

この文章が、結局いったい何を言いたいのか、いまいち判然としないかもしれない。(それは俺が、これでもなけなしのオブラートに包んでいるからだ。)

俺は他人に見られてはならない自分の傲慢な本音を、ドMにも自ら直撃に表現して晒し、その爆弾で自らを吹き飛ばす愚かな作風を取っていた。ドMとは言っても、その正体は罵声であり、他人への攻撃だ。

当時俺が行った最大のセルフ・クライシス発言(自分で自分を危機に陥れる芸)を今、掘り返してやろう。

それは、「俺は読みたくもない他人の記事を読みに行き、賛辞を送った。内心では誰の文章をも否定してるのに。」

てな感じのものだった。よくあんな事言ったな〜と、自分の中で一つの「負のマイルストーン(≒到達地点)」として清々しさまで感じていた始末だが、今掘り返してみると、やはりゾッとする。

で、俺はその続編をここにケロッと吐き出す算段でいる。俺の一種のモラハラ発言が、堂々たる自虐と不誠実として、不幸にも形をなさんとす。

曰くーー

読めない奴には読めないさ。

コレが俺の傲慢な本音だ。この一文に行き着くための長文だった。

この長文量に、俺の優しさが滲み出ている。他人を突き放すのを躊躇った善意の痕跡が。ご主人をいつまでも慕い続ける愛らしい良識が。

俺ほどの男もなかなかいない。

そうだろ? ポヤスキー。


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