文学賞を目指してはならない
文章を書く動機は人それぞれだと思うが、良い文章を書いて世に認められたいなんて思うことは、珍しくないだろう。私はそれを否定する気はないし......嘘だ。否定する。今日はそのために来た。
ここはnoteだ。私はここで、たくさんの人と直接、間接に関わっている。このことは、自分の意見を表明することの障壁になりうる。身近な誰かと反対の意見を書くことはナイーブな問題だ。この点に悩むのは間違っていないはずだ。人は日常で意見を交わしたりするかと言えばそうでもないし「意見を戦わせる」なんて言い方も存在する。日本語の「意見する」という言葉には悪い含みだってある。日本人は欧米人と比べて議論が好きとは言えないと思うし。欧米人は議論の場で白熱していた両者が、その後の会食で親しげに談笑しているみたいな、そんなイメージをどこかで拾い読みしたことがある。
いま、反対意見を書くことが既にナイーブな問題である。こういった感性は、文章の読解にも大いに影響すると思う。人は文章を読むとき、特に書籍を読むとき、そこに書いてある考えや知識を自分のものとして吸収しようとしていないか?まず、言いたいのは、読者が筆者と同じ考えを持つ必要はないことだ。ところが、少なくない読者は、なにか良いことが書いてあるような前提で本を読むというか、読書というものがそもそもそういった文脈に支配されがちだ。私自身、身に覚えがある。子供時代。本を読むときは、自分が賢くなるようなイメージを持っていた。そのために読むのだ、と。そして、私が言いたいのは結局、次の点だ。「そういった読書の末に、その本の主張は私の主張になるのであった」。言いたいことがわかるだろうか。私はいま、正直に白状している。このような反省を踏まえれば、例えば「子供は読書をするべきではない」というアイデアだって、決して奇をてらったものなわけではないことが伝わるのではないだろうか。子供は簡単に影響されてしまう。子供は簡単に支配されてしまう。洗脳とも言う。
文章を読むと、筆者による同調圧力に常にさらされることになる。このことは認めなければならないのではないか。これに身構えるのは、案外容易ではない。もし、最大限に対策したいのであれば、そもそも読まないことが最善なのである。文章を読むことは危険である。そもそも、なんのために読むのかという問題だ。正直な白状を続けよう。少年時代の私は、自分の知らない何か優れた考えや知識を仕入れるために読書していた。同年代の他人が知らなそうなことを。自分の強みとするために。それこそが、少年にとっての読書であった。そんな読書の仕方においては、すなわち、読者と筆者の関係はそのようなものというわけだ。弟子と師匠みたいな。孔子が弟子に教えを説くような、そういう安易なイメージを読書に当てはめているのである。そのような読書は、いったい何であろうか。読んでいるときに、何が起きている?読者は、筆者の主張には価値があると思い込んでいる。筆者の主張は理解されるべきものであり、読者である自分はそれを理解するべきであって、そのために読んでいる。ということではないか。当然か?......これが当然だって?読者である当時の私は、健気に文章に喰らい付いていき「筆者が何かを皮肉ろうものなら『自分はそれに当てはまらないさ......!』だとか『そ、そうだそうだ!自分もそんな悪例には当てはまらないようにしなくちゃ』などと思っていた」のである!思わされていたのである。これが読書の正体である。これこそが、私の言いたかった点だ。
このような読み方において、読者は筆者の主張に対して無防備であり、特に反対意見においては問題はもっと大きくなる。そもそも、文章を読むとき、その文章が読者と反対の意見を述べるという状況とはどういう状況か。ディベートの場か。敵国の挑発的文書か。身近な人物の書いたよくわからない文章か。書籍化の事実は、ヤワな読者の批判を、読む以前の前提の時点からへし折るのに十分な力を持っている。野蛮な世界だ。身近な話、SNSのフォロワー数だとか「何々賞受賞」みたいな肩書きが力を持ち、そんな外部の要素とは関係なく内容で勝負するという人はいまどきいないというか、ただの馬鹿正直で夢みがちな愚か者というか。結局何が言いたいかというと、ネットの落書きを目撃するのと違い、出版という事実にお膳立てされた「いわゆる読書」的な文脈において、人はたいてい、ぶしつけな反対意見に触れることがない。いや、触れることはあっても、書籍化などの事実によって内容がある程度保証されているはずだという安易な神聖化というか無防備な服従癖の中では、反対意見は読者自身の目の前で、自身の中で揉み消される。読者は筆者と仲良しの関係でいたいのか、あるいは読者がその書籍を「自分の権威」としたい(虎の威を借る狐的な)のか、自分と反対の意見に直面した際に「あ、そうなんだ」と簡単に付和雷同するような感覚。読者が文章に対して精神的に独立しながら読むというニュアンスがだいぶ弱いのが、一般的な読書ではないか。世間一般の「いわゆる読書」において、書籍は愛玩用である。
ひとことで言おう。私が述べる、あなたとは反対の意見をあなたが読んでも「うんうん、そうだよね。言われてみれば、そうだよね」とか思う必要はない。当たり前か?当たり前だと思うなら、あなたは既に罠にハマっている可能性がある......。あなたが私の言うことにまんまと説得させられているから「当たり前」と思ったのではないか。文章を読むときに筆者の同調圧力から逃れるのは容易ではないし、そもそもそういう読み方に多くの人は慣れていないと思われることをここまで書いてきた。文章を読むのは難しい。読書というものが、まるでなにか良いものであるかのようなイメージが公然と流布している中で、読者が筆者に対して従属的でなく、適切な距離感や関係を取るためには、人生経験が必要である。狭義で言えば、それが読解力である。「あえて読む」だなどという無闇な行為に出た以上、読者が筆者に対して互角に渡り合うのに、一つのハンデを既に負うことになることを認めないというのは、それは自惚れであろう。「自分なら他人(筆者)の影響を受けずにいられるさ」そんな根拠もセンスもない、いかにも未熟な万能感をぶら下げて読むと言うのだから。
さて、ここからが一応、本題である。人は文章を書くとき、世間一般の他人に認められるものを書こうとしがちだ。そんなことないか?それも、特に、何々賞を受賞したい、とか、あわよくばできたらな、とか。私がこれまで散々前置きしてきたのは、この点のためなのだ。noteでは、それを目指す人が当然、少なくない。私の身近にも、きっといるはずだ。そんな中で、私はそんな行為を批判しようということなので、私なりにだが配慮したという次第だ。私がここで何と言おうが、説得云々は抜きにしても、気分を悪くとかあまりしないで「フンッ」くらいに思っているのがいいし、何と言うのかな、文章を読んで、自身と反対の意見に「ドキッ」としてもらいたくないという優しさみたいな、そんな気分が、驚くべきことに、私にも実はある。あくまでも気分だが。実際には多かれ少なかれ「ドキッ」とするのだろう......経験則だ。申し訳ない。しかし、最初から、何かいかがわしい見世物小屋のようなつもりで文章を読んでいれば、もっと軽く「なんだそれ。まったく。」くらいの感想で済ませられるのでは、とも思ったのだ。
例えば料理の腕を競うのと、文章の腕を競うのは、ある点が決定的に違う。そもそも、文章に腕前なんてものがあるのかも、よく考えれば怪しいが。突き詰めて考えれば、いろんなものが怪しくなる。文章は、料理と違って、実際の有用性や美味さ以外に、ありがたがるという性質がある。ありがたがるというか、その......「目上の人の言うことだから聞こう」とか「専門家の意見だから聞こう」とか、そういった性質がある。別の角度から言えば「素人や若輩者がなんでそんなに語ってるんだ」という批判が生まれ得る。この点が、じっくり考えるべきことのように思う。特に、抽象的なことや、人生に関することを、自分より年下の者がいかにももっともらしく説いていたら、あなたはどう思うか?狭いコミュニティで勝手にやるのは自由だ。では、それに価値があると本人が迫って(主張して)いるのだが、どうか。内容が面白ければ耳を貸すか?まぁ、建前では一応そういうことなのだが……。上の立場だから言える(言ってまかり通る)ことがあるというのも、これも事実であろう。世の中の仕組みである。そのようなものは内容の有無と関係がなく、一方、それに対して、作品というものは内容の有無だけで評価されると、あなたは無垢に考えるのだろうか?「おまえごときが(例えば、プロではない、という意味で。あるいは、門外漢、という意味で)何を言っている。そんな主張をして。馬鹿馬鹿しい」このような反応が生まれ得る、社会的な人間関係の力学の働く言論の土俵で、新人が、権力者や先人の耳に優しいことばかりを選んで発言したり、そのような物腰でいることが世渡りとして力を持つというか、それをしないことがそもそも「他人に気に入られる(認められる)」ことと逆走することと言えるのではないか。しかし、文章というものは、仮に表面上でどんなに謹んだ態度でいようとも、そんな上辺に騙されてはいけない、自ら語って聞かせるというその態度、自分の言論が披露に値するというその不敵な判断は、文章の存在と同時にれっきと存在しているではないか。どんな文章も、本質的に、他人に迫っている。「まあ、いいから私の言うことを聞きなよ」というのが、どんな文章もが持つ、根本的な態度であり、願いではないか。全ての文章は物申している。どんな文章も、本質的に不遜である。それは書いて表明なんてことをしでかすに値しないという謹んだ判断を、結局のところかいくぐったのだから。
自説の流布だなんてことを強行している輩に混じって、自分も威勢よく振る舞おうというのだから、先人の鼻についても当然であろう。これが、賞だなどと言って、先人に気に入られようとすることと、根本的に矛盾する点なのだ。勘のいい者なら気づいているはずではないか?もし、自分の価値観ばかりでやっていこうというのなら、なんの後ろ盾も持つことがなく「自分が屈しないでいることだけ」が頼りなのだということを。ほとんどうろ覚えだが、私が先日読んだ記事によれば、画家のベーコンは「芸術家の仕事は批判に耐えることだ」というようなことを言ったのだとか。これが事実かとか、私の記憶がどこまで正しいかは、ここではもうどうでもいい。その主張には納得できるものがあり、そのことだけで既に意味がある。
人に気に入られようとすることは、表現や創造の世界ではーーひょっとしたら、それだけでなく、人生全般においてもーー弱みとなりうる。協調性と言えば聞こえはいいが、追従とも、迎合とも言える。それは、一喜一憂するべき点なのか。あなたやあなたの表現が、他人の気に入らなかったことは、あなたにとって問題か?思うに、文章を読むことと書くことは、どちらも、とても怪しい、いかがわしい行為である。審美だとか鑑賞だとか、そんな生易しいイメージだけで出来ているとは思えない。読者と筆者には、もっとドス黒い、生々しい関係がある。例えば、野生動物が、逃げる生き物を見た時点でそれを獲物と認識するような。相手の大きさや素早さを見て、自分が狩れる相手なのかどうかを総合的に判断するというよりも、相手が逃走したという、相手のその出かたを見たことで「あ、自分が追いかけていいんだ」とちゃっかりみなすという。飼い犬だって、散歩の時、犬の進みたがる方向に飼い主が全て合わせていたら、犬は自分の方がご主人様だと認識するようになるので、飼い主は導くところはしっかり導かなければならないという話をテレビで見たことがある。逃げる物を獲物と認識して追いかけたり、意志薄弱な飼い主を臣下と認識したりするのと同じように、文章が読者にもっともらしく迫るから(とくに書籍化された事実が強力だ)読者は「ふむふむ、これは(敬意を払って)読むものなのか。破り捨てたり、踏んだりするものではなく」とまんまと認識するのだ。そうして、筆者との不気味な関係を自ら進んで受け入れることになる。話がわかりにくいかもしれない。誤解を恐れず、ぶっきらぼうな言い方をしてしまおう。賞に受賞しないだろうかと弱気にビクビク待ち望むことは、背を向けて逃げる動物に似ている。そのような態度が、かえって相手の態度を決定してしまう。相手を助長してしまう。相手が「そっか。これは自分が良し悪しを判断していいんだ。自分にもそれが出来ちゃうような、そもそもそんな程度の相手なんだ。知らないけど。なんか、そうみたい」といった具合に。文章を書くなら、自分を狩ろうと追いかけてくる相手(それは価値観かもしれないし、習慣かもしれない)を、同時に自分からも逆に追いかけて、そこで何かを勃発させるくらいの気概か、あるいはただの厚顔さか愚かさか、そんなものが必要なのではないか。私は相手がどう出るかで自分の態度を決めたくない。相手が逃げようが、追いかけて来ようが、相手のその判断に飲み込まれたくない。だから、賞なるものが「お前を審美してやるよ。来てみな。坊や」と迫ってきても、私は逆に「お前ごときが?冗談だろ。お前にはとても無理だ」と嘘でも言うのである。
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