【小説】風などどこにもない
はぁ、はやくポケモンになりたい。そして、きみがポケモン・マスターになれば、それでいいんじゃないか?完璧じゃないか。そうすれば、少しは世界も救われるんじゃないかな。きみの世界も、ぼくの世界も。だって、きみの世界も、ぼくの世界も、まだ救われていないでしょう。
どんな小さな世界にも、救いは必要だと思う。救われる権利ーーとか言ったら、大げさすぎて笑っちゃうけど、少なくとも、救われる……その、なんというか、予定というか、余地というか、準備というかーー。ゴメン、なにを言ってるか、自分でも全然わからない。ああ、はやくポケモンになりたい。
ぼくにはね、救われる余地が、まだあると思うよ。うん、まだまだあるね。全然あるよね、余地というのであれば。余地の方がむしろ大きいね。メインより。「余」地、なのにね。余ってる土地でしょ、余地って。変だね、メインより余地の方が大きいってね。というより、メインってなんだろ?ぼくのメインってなんだ?
救われる予定は……これはね、ないね。ないよね、普通にね。いや、ある……?あるかな……。あるのかなあ、まあ、あるということでもいいよ。あるということにしよっか。「予定はありますか?」と訊かれたら「あります」と答えられるように、ね。(そんなことを考えてるのって、ダサいよね。本当はね。)そして、準備はといえばだね、ーーなんの準備かって?そりゃあ、だから、ポケモンになる準備でしょ。ぼくは、ずっと準備してるよ。もう、ずうぅっと、準備してる。ずいぶん長いこと。あれ?そっちの準備ではない?では、なんの準備だっけ。いなくなる準備?救われる準備?あ、そっちか。救われる準備か。そっか、そうだった。そうだったよね。ここの世界はまだ終わってないもんね。
ぼくはポケットから懐中時計を取り出して、時刻を確認した。午前3時35分。半島が海の向こうの大陸に向かって唸りをあげるまで、あと2時間弱。ぼくは、懐中時計に繋がれた、やたら存在感のある重たい鎖を手でジャラジャラ言わせ、その重みから感じる些細な充実感に気を紛らわせていた。この鎖を弄ると、ぼくは自分が生きているのだということを思い出す。この、携行するにはやや重すぎる、太くて無骨な、傷だらけの鎖が、生きている実感を、ぼくに少しだけ思い出させてくれる、そんな気がするのだった。
ーー生きるとはなにか?それは、少し重たいものを持つことだ。
ーーこの鎖はぼくの命よりもずっと重い。
そんな考えをぼくは頭に浮かべては、それを捨てずに頭の中でずっと弄んでいた。鎖のズッシリとした手応えに、ぼくはいま、ひとつの命を手にしているかのような感覚に浸り、不思議と少しだけ活気付く。だからといって、どうなるというほどでもないのだが。それだけのことでも、ぼくにとっては貴重なことだった。
ぼくが万が一、人に襲われることがあったら、この鎖でそいつを殴ってやればいい。ぼくはその様子を想像し、イメージの中で何度もその練習をした。振り下ろした鎖が自分の方に返ってきて自分を襲わないように、工夫しながら、何度も何度も練習した。気がつけば、少し息が上がっている。僕は海の方を見た。
午前3時の真っ暗な水平線には、向こうの大陸のおぼろな光が点々と並び、ゆらゆらと海面に反射して何本もの光の柱となって伸びている。半島はいま、大陸に向かって吼えるために、ゆっくりと準備を整えている。ぼくは鎖をぶらつかせながら、暗闇の中で崖に落ちないように気をつけ、あるいは、いっそ敢えて落ちてみようかと、そんな右も左もない思念の中で、時が来るのを待っていた。
(つづく)
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