感想2【神回】

(つづき)

この結果がどんな意味を持つか?

(見る人が見れば見分けはつくかもしれない、という説は捨てずに、しかしここではとりあえずそれは脇へ置いておいて、)

言われてみれば『流動』は確かに他とは違う、と言い出す人がいるでしょうか?

「よく見たら『流動』だけ他より優れている」とか、もしくは逆に「『流動』だけ変。というか出来が悪い」といった具合に、事実を後ろ盾にした今、後出しでそういう評論が出うるかもしれない。


もしくは、『流動』だけが本物(ランボー作)というのも嘘である可能性がある、と抜かりなく考える人もいるかも。(もはや人間不信の世界w なんかごめん...) そういう可能性を捨てない思考に僕個人は共感します。


簡潔に行きます。
二つの方向性がある。
一. ランボーの詩は大したことない
一. ナスカーチャの技術は天才ランボー並み

どっちも可能性はあります。

ある人はこう考えるかも。
「身近にいるような人間・ナスカーチャにできてしまう事なんて、別にそんな大した事じゃないんじゃないか? きっとそれくらいできる人は他にも結構いるんだろう。ナスカーチャらにできてしまうくらいの事なんだし、そもそもランボーという詩人自体がそんなに大した作家ではないんじゃないか? 実際、『流動(運動)』を読んでも、これが大した内容には思えないし。」

別のある人はこう考えるかも。
(これはちょっと非現実的かもしれませんが(?))
「ナスカーチャという人は、さらりとこんな事をしているが、これはなかなかできない事である。正常性(日常性)バイアスに捉われて、つまり、日常でさらりと行われているから気付きにくいが、これは稀有な才能である。今後大成し、過去を振り返ったとき、note活動時代から才能を発揮していた、と言われるかもしれない。」

/(^o^)\
そんなに〜? 照れるな〜。
調子に乗ったナスカーチャは、(未来で)こう言い出した。(シミュレーションです)
「大成したから、今になって、才能ある、とか、凄い、とか、みんな言ってくれるようになったけど、昔のnote活動時代はわりとみんなクールに『ふ〜ん、いんじゃん?』とか『よくわかんね〜(´∀`)』とか結構適当にあしらっていた。内容のクオリティ自体は昔からあまり変わっていないのに、評判を手に入れたら、みんな途端に大仰になり始めたようだ。」

ナスカーチャ←(殴)(殴)(殴)
ごめん、調子に乗った......。
殴らないで。


しかし、いずれにせよ、ランボーの詩と僕の自作詩が見分けがつかないのであれば、それは一つの重要な結果だ。

(素人相手に騙くらかしただけなのかもしれないが。実際はそうなのだろう。)

恐らく、この結果を見て「ランボーの詩がそもそも意味不明であり、冷静に考えれば、価値のあるものではなさそうだと言えるんじゃないか」という方向に考える人が多数派になるんだろう。そう思う。世の中とはそういうものではないか。

あの小林秀雄が心酔したランボオを。
無価値であると。

あなたは僕と同じように、小林秀雄の文章を読んで「くだらん」と一笑に付すんですか?(←え?)
小林秀雄はくだらないですか? 彼の判断は取るに足らないものですか? かつて大学入試でよく問題文として取り上げられた、難解な批評文で知られる小林秀雄が。彼の『無常という事』に関しては、高校時これを教科書で読んだ覚えがある。

このような事実に尻尾を巻く読者がいそうなので言及した。


僕の自作詩とランボーの詩の違いが見抜けなかった全ての人に対して、僕はランボーと同格である。

ああ、皆にとってなんと不愉快な事実だろう。


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