我の強い文章は嫌われる【再掲】

我の強い語りは敬遠される。文章が独断を強め、あれやこれやと向こう見ずに断定を繰り返すのなら、それは傍目(はため)には読めた物ではない。

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人から求められる文章像というのは、ある。人に読んでもらうために書かれた文章。最低限の謙虚さと、そして読み手に対する親切さがある事。

しかしそれだけではない。文章という物はそもそも「まとも」である。日常会話や、掲示板の書き込みなどと違い、質も量もある程度まとまった物である場合が多い。文章とはそういう物だと思って、人は文章を書くからだ。「まとも」な題材を扱い、「まとも」な口調で語られ、「まとも」な人に読んでもらおうとする物。文章とはそういう物である、という「まとも」な認識。

私はこのところ、我の強い語りの文章を実験的に作っていた。「まとも」と思われる内容を少しは盛り込みつつも、しかし「理不尽な展開」を売りとし、根拠とする文章だ。一種のエンターテイメントとしてだ。話し言葉を唐突に挟み込んだり、わざと愚かな発言をしてみせたりした。

しかしそういった、小手先のとでもいえる工夫を施した文章は、読み手を選んでしまい、門前払いされやすい。特に、我の強さは鼻に付く。私は、note界隈で、多くの書き手が「開かれた文章」を書いているのに対し、自分が「閉じた文章」を書いている事に、窮屈さは別段感じなくとも、そういった他人の目に私の文章が触れる事に申し訳なさを少し感じる。

自己陶酔。皮肉な比喩。気の触れた内容。私の作った文章は、人を不愉快にさせるそういった要素が、意図して多く盛り込まれた。中には無意識に盛り込まれた物もあったに違いない。私はそれをも辞さぬつもりで、「それを隠すために」諧謔(かいぎゃく)ともつかぬ諧謔を強めた。冗談のつもりでワザと誇張してやったという事だ。

私には世のどの文章も醜く見える。どんな文章も自己陶酔的で、皮肉であり、気が触れているように見える。後半は少し言いすぎた。しかし私は、文章という物が根本的に持つ自己陶酔性に、納得が行かない。私は、文章の語り手が、それを言う事をためらう事なく、それが言うに値するという認識を以って言葉を吐き続ける事を嫌悪してしまう。その内容が私を感心させるならば、私は嫌悪しないと思う。納得するだろう。しかし私にとっては、ほとんどの文章がどうといういう事のない内容に見える。

文章には一般的に、特筆性が必要だ。個人が日記を付けていても、そこに非凡な表現でもない限り、その文章は客観的には価値がない。その人自身にとってや、その人を個人的に知る、いわば「身内」にしか価値のない文章であろう。

しかし、稀に、「ただの日記」に非凡な表現を見つける事がある。いや、「ただの日記」にこそ、人目をはばからず吐露された、表立(おもてだ)ってはなかなか語られる事のない人間の本質が見事に書き表されている事がある。私はそれを文学だと思う。

「人から求められる文章」は美しくて、非の打ち所がない。誰が読んでも納得する物、万人に価値を提供する物、そういった物を目指して書かれている。しかし私は、そういった物に特に興味が湧かない。これは私の好みの話だ。私は、多くの人に共感され、「スキ」(*noteにおける「いいね」)をたくさん贈られた文章に、たいてい面白さを感じない。それどころか、それらは驚くほど凡庸な内容である事が多い。ただ雰囲気がそれっぽいだけの「名言」や、今更感のある警句・警鐘の類、綺麗事などはカワイイとしても、自身の独断を疑わぬ厚顔さ。見かけばかりの慇懃(いんぎん)さ。物分かりの良さそうな口調の内に秘められた、物申さんとする有能感。「人から求められる文章」の内に垣間(かいま)見える、表面上の小綺麗な体裁とは裏腹のそういった「我の強さ」が、凡俗さが、私には醜く見える。

全ての文章は主観的である。客観的な文章という物はない。客観的な記述や事実の記述と謳(うた)われる物でも、「それが言うに値するという主観」は免(まぬか)れない。これが屁理屈に聞こえるだろうか。新聞やニュースを考えてみると、わかりやすいかもしれない。事件が起きたとして、それが記述された。事実らしい物が記述されているのには違いない。しかし、「だからどうした」。ニュースキャスターの神妙な面(おも)持ち、あれこそが主観である。新聞の文章の語り手が選ぶ題材や一語一語、特筆性の有無の判断、伝えるニュアンス、語り手の態度の真面目くさった無機質さ、全て主観である。そういう物がそういう風に語られ、我々は我々で然(しか)るべき態度でそれを受け取る「ものだ」という主観に他ならない。ニュースを見ると笑ってしまう。あの真顔にもっともらしい振る舞い。説得力か何かのつもりであろうか。それか儀式か何かか。なんと原始的な社会だろう。いや、主観の表現だ。印象、感情の表現だ。

社会にそういう風潮があり、すなわち多数の人がそれに納得している事を「客観」と言うのなら、私の主張は的外れであろう。そしてそれは、良識を以ってみれば、私自身、否定する気はない。客観的にみれば、私の方こそが考えすぎなのだ。文章に過剰にクオリティを求めてしまっている、ないしは変なこだわりを持っているのだ。

表面的に主観を排したかのような態度で語りさえすれば、断定の陳列が滑稽に見えないらしい。「文章」が蔓延(はびこ)るのは、私からすればそういう事だ。社会は「文章」が内に持つ独断を受け入れている。「文章」に臆面はない。書き手がいけしゃあしゃあと書く気になり、読み手がノーリアクションで黙々と読んでいる限り、社会のこの「客観」は、私には取り付く島もない。

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我の強い語りは嫌われる。表面的に丁寧な口調で語れば、読者は読んでくれる。しかし、その内に公然と隠された「我の強さ」に、読者は気が付かない。文章が読まれているという事は、そういう事だ。所詮、上辺(うわべ)の態度さえ整えれば、文章の横暴は許される。読者がそれを望んでいる。全ての文章は我が強い。読むに耐えず、書く価値もない。くだらなくてやっていられない。今回私は無理して書いた。普段の文体は“もっと”我が強い。普遍的な語りを今回は目指したのだが、これきりだろう。馬鹿馬鹿しい。アホが。

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