◯◯賞ってくだらない?

そもそも文章の出来に客観的な良し悪しはあるか?

この点を突き詰めて考えることができるか?


「客観的な」良し悪しーー。

それも人それぞれか? 価値観次第か?

ーーなら、どんな文章も多様性の名の下に全く対等に肩を並べるのか?


その問いにはいま直接答えたくない。なんとなく。

***


(小手先だけの白々しい両論併記な調子を避け、私の主観を主体に文章を構成しようと思う。)


各個人がてんでバラバラな、時にトンチンカンな主張を繰り広げても「人それぞれだ。みんな良い。」と言って片付けるのは......はっきり言って頼りない。

建前ということはある。そう言っておけば丸く収まるから。その社会、コミュニティの複雑で繊細な事情に基づく建前、一種の妥協点としての「人それぞれ」。

でも、もし、建前でなく、それが本心だとしたら? それって、どういう考えだろう。

コメントを求められ、第一声で「人それぞれ」という言葉が出る人に「では、あなた個人の感想は?」と二度手間の質問をしてようやくしぶしぶ、それも言葉少なげに判断らしいものを述べるということはありそうである。

もっと極端に「人それぞれだから、どれも良いと思います」とか「人それぞれだから、良いとか悪いの問題ではないと思う」という考え、というか言い方についてどう思うか? これはそもそも“考え”と言えるのだろうか?

相対ポヨ太郎「別にそれも人それぞれなんじゃないっスか?」

出たよ......。まさに、そういう物言いについて考えている。その、一見良識そうに見えながら屁理屈のようでもあり、議論を全て無に還すちゃぶ台返しのような一言について。

もっとも極端に「人それぞれというのが私個人の意見であり、それ以外の意見を私は持つ気がない」とまで明言できる奴がいるとすれば、そいつは筋金入りの詭弁家である。


そのような言論を真に受けていては、言いくるめられている。


それは「考えがないのが考えである」と言っているようなものだからだ。

それを仮に「無主張派」と呼ぼう。そういう一派や“ノリ”が社会で支持を得て、世の中の主流な態度になることだって、考えてみればあり得ることだ。なにかを決めつけるようなことは決して言わず、そういう主張に関してはひたすら沈黙を通す。それこそが分別であると。

ありそうな価値観である。

「無主張派」の唯一の主張は、“主張しないこと”である。それが考えであり、判断であり、価値である、と。


納得できる。
(納得するんかーい)

***


しかし、一方で、その無主張を「判断の放棄である」と言ってのける奴も、世の中にいた方がいい。無主張は表現の対極である、と。消極的な生である、と。

なにより、その「断定派(ないしは主張派)」こそ、無主張派が保全したい多様性の内の一大要素ではないか。

なにかを黒と言うこと、なにかを白と言うこと、それは創造性だ。

相対主義は罠である。


と言ってみたものの、野生的な感覚で考えれば、もし無主張派が主流なのであれば、主張派は単に“ウルサイ”奴、目の上のたんこぶ、ないしは荒唐無稽な恥知らずと受け止められるのだろう。批判さえしなければ、ただ取り合って貰えないだけに終わるのだろう。その内容が、思わず目を引くほど興味深いものでない限り。結構じゃないか。

そもそも、無主張派は多様性を保全したいなどとは全然考えておらず、単に謙虚な態度を美徳とし、隙あらば他人にまでその態度を望むということもあるかもしれない。私自身、そのような心理に心当たりがある。


というわけで、文章の客観的な良し悪しが存在するかどうかではなく、

誰かがそれを主張することが一興だということだ。
(できるもんならしてみろ、と。)


次回、私が自分の思う文章の客観的な良し悪しを主張しに行ってみよう。


世の◯◯賞とやらの講評が怪しげなものばかりだから、私が怠惰な腰を上げ、わざわざ自分の足で世界を歩くハメになった。

他人の怪しげな主張は押しのけなければなるまい。私の利益に関わる。

早い話、その人にどんな立場や実績があろうとも、◯◯賞などと差し出がましくも優劣をつけた品評なんぞを下していたら雑草根性から反発したくなるし、その上その内容がお粗末なものに感じたら、物申さざるを得なくなる。だって、黙ってたら損じゃないか。そんな荒唐無稽な講評と厚顔な格付けには納得のいかないことを表明しなければならない。また、そのような講評、ひいては賞自体を真に受けている人に対しても、同様に違和感がある。

そもそも、ある一つの文章が、賞を受ける前と後で、その内容的な価値が変わるわけでもあるまい?

賞を貰わなければ価値があるかどうか見抜けないのであれば、全て自分が悪い。

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