僕はとっても頭がいいみたい♩ 〜本はなぜ長い?〜
ちょっと待て。タイトルはもちろんギャグで言っている。そこんところ、わかってくれないと僕は困るんだ♩
君はいつも僕を困らせる。
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本ってさ、どれも同じような厚さしてるじゃん。いや、本によってまちまちだって? それはそうだ。でも、10数ページしかない本というのはないわけじゃん。そんなものは書籍として販売も製造もされていない。そもそも、それは「本」というより「冊子」と言った方がいいかもしれない。10数ページしかないのなら、それはもはや本ではない。冊子だ。
世の中に、冊子屋さんなんてものはない。
......(笑)
「私は冊子を書く人になりたい」「将来の夢は冊子を書くことです」
こういう話も聞いたことがない。ないだろう。(ないよね? 「ある」とかいうコメントはマジで不要です。)
本ないしは書籍というのは、どれもある程度の厚さがある。200ページだとか、せめて100ページとか。書店に置いてあるのは「そういう本」ばかりだろう。どの本も、背表紙にタイトルが書けるほどの厚さをしている。
どんな本も、それを手に取った人がそれを読むことにわざわざたくさんの時間を費やすことができるように、たくさんの文章が詰め込まれているということだ。
そんな言い方はちょっと皮肉すぎたか? かもしれない。
本がどれも厚いのは、商業的な都合だ。いや、もっといろんな都合があるんだろう。今回のこの投稿では、その点について考えたい。
そもそも、本がどれも決まって「十分に厚い」ことは、不思議なことだろうか?
「別に不思議ではない」
そっか。そうかも。
そっか......。
***
ごくごく個人的な体験なんだけど、ある時ーーずっと昔ーー俺は本を読んでいて「いま、この本の全体の2割ほどのところまでしか読んでいないが、この本の言いたいことの8割方はすでに書いてあった気がする。そんな“気がする”。」というようなことが起きた。
その本は、なにかの実用書か、哲学の解説本といったものだったと思う。少なくとも、小説とかそういう類のものではなかった。
そして、ーー
俺はそこでその本を読むのをやめたのだった。
これは自分にとって新しい行為だった。というのも、きっと当たり前のことだと思うが、本や文章というものは普通、最後まで読むものだからだ。世間一般ではそう思われているだろう。最後まで読まなければ、著者の言いたいことを正確に理解できない、とかなんとか。俺もその時まではそう思い、当然のように、読書として本を最後まで読もうとしていた。
それを、読みかけのところで、それ以上に読み進めることをやめ、その時点で得ただけの内容について、自分でああだこうだと考えることにしたのだった。
それは自分にとって新鮮な行為だった。だって、それ以降のくだりになにかもっと重要な表現があるかもしれない。書籍がそもそもそこで終わっておらず、その後も長々と続いているところを見れば、むしろ本題はこれからなのではないか。ここまで書かれていたものは起承転結の「起」か、ないしはせいぜい「承」が始まったばかりのところだろう。そんな時点で早々に読み進めるのをやめて、それまでに書いてあっただけの内容について自分がどう思うか・どう考えるかを思索することにするというのだ。
そんなことをしていたら、いつまでたっても本を読み終えられないのではないか? 知らないが。
また、繰り返しになるが、その本の核心部分がまだである可能性だってある。というかその可能性は高い。
俺はその時、「それまでのある経験から」そのような行為に出たのだった。その経験とは「読書において、その本における主張の核心に到達したと感じた地点以降のくだりから得るものがそんなに多くないのが通例だ」というものだ。
これについてどう思うか? こういうことはあるだろうか。ないだろうか。
かなり感覚的な話だと思う。
根拠とか説得力のある話ではない。ただ俺が「なんとなくそう感じた」という体験にすぎない。
読書において、その本の内容の核心をつかんだと思われる時がある。そんな明確なものではないかもしれないが、まあ「だいたいわかった」とか「およそのところは十分に理解した」と思われる時である。俺は、そう思われた時に、そうでありながら、「とりあえず最後までは読んでみよう」と常識的に考え、普通に最後まで読むことを、それまではしていた。
ところが、そういった至って普通の行動を何度か重ねるうちに、先にも言ったことに気がつくことなる。かなり感覚的な話ではあるが、「およそは理解したと思った地点以降のくだりからは大して得るものがなかった」という経験・感覚である。
無意識のうちにそんな経験を何度か積んでいった。
その結果、最初の方で言った「いま、この本の全体の2割ほどのところまでしか読んでいないが、この本の言いたいことの8割方はすでに書いてあった気がする。そんな“気がする”。」という「奇妙な考え」を持つようになる。
全体の2割程度の時点というのは少し言い過ぎかもしれない。4、5割は読んだのかもしれない。ただ、この問題は、その程度に本質があるわけではないようにも思う。
「全体の2割のところに内容の8割が書かれている」と感じる、ないしは考えるというのは、常識的に考えれば暴論に他ならないだろう。なんで最後まで読みもしないでそんなこと言ってんだ、と。
一種の経験則ではある。十分に理解したと思った以降のくだりから得るものがないことが多かった、という。それ以降のくだりは、なにかまた別の観点からの言い換えだったり例示だったりして、本質的に言いたいことは同じである。同じであった。そんな経験を何度かした。
ようは、早い話、「それ以降のくだり」を読んでいて俺は「これ読んでも意味ないな」と思ったのだ。
全部読み終わった後、結局「あの時点」で読むのをやめていた場合とで理解の程度にあまり差がないと感じることが多かった。それどころか、それを理解したまさにその時のイキイキした手応えーー自分がそれに対してなにかを言いたい、だとか、考えたい、だとか、そういったリアクション欲ーーを押し殺してまで読み進めるという作業に徹したために、その発見の興奮とかなにやらが、なんだか冷めてしまってまでいる気がするのだった。
読書においてそういう問題が、俺の極めて個人的な感覚の中で起きていた。
だから、大胆に「あ、これ、もうこれ以降読まなくてもいいかもしれない。『少なくとも』これまでの記述からだけで大いに発見(ないしは刺激)があった。いまこの感覚を逃すのはもったいない。これまでの記述からだけでも、自分はたくさん考えを広げていけそうだ。」と考えたんだ。そしてそれは、それ以降のくだりに書かれている内容は「見落として良い」という態度でさえあった。
ひどい話かもしれない。本に書いてあることを正確に理解することを放棄しているからだ。自分でもそういうつもりでいた。本を尊重していない。本を叩き台にしか思っていない。本に書いてあることは、自分にとって脇役である。そこに書いてあることを独自の仕方で見て、それが全くに誤った見方であったり、誤解しかねないくらいに小さな部分にすぎないものにだけ着目していたりするのだとしても、自分がなにか思うところがあれば、それだけで俺にとっては成功だった。
著者の言いたいこと? そんなもんはどうでもいい。
こうして俺は、本をまるで玩具かなにかのように、極めて自分勝手な仕方で扱い始めた。
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そのことが、冒頭の「本はなぜかみな厚い」問題につながる。
俺は、内容があればその文章を読むし、内容がなければ(乏しければ)その文章は読まない。当たり前の話だ。
これは一見当たり前の話だが、......
俺の場合は行きすぎていて、本の冒頭2割程度で「ああ、もうわかった」とか「そういうことが言いたいのね」とか決めつけてしまう。俺は内容を「自分にとって」十分と思えるものを理解したなら、それ以上その本は読まない。以降は得るものが少ないと勝手に見当をつけて、読むのをやめてしまう。
これは、文章そのものではなく、内容が重要だと考えているということなんだーー。内容をつかんだら、それ以上にくだくだしく読み続ける必要はない。文章は内容を伝えることが目的であって、それ自体を鑑賞するとかいうものではない。(小説とかはもちろん除く)
ーーー。
そんなの当然のことか?
そうだろうか?
ーー俺にはそれが当然とは思えない。
もし、内容を伝えるだけで十分なのであれば、書籍がどれもあんなにガッチリとした厚さになるわけなんてないだろう。なぜみんな示し合わせたようにたっぷり200ページ分の言いたいことを持つんだ。
あれは、どう見ても、諸々の都合から「わざわざ長くされている」んだ。
書くために書かれ、読むために読んでいる。それ自体がもはや目的となっている。
ーー。
違うだろうか?
いや、違わないだろう。
俺は「書くために書き、読むために読む」というのが嫌いなんだ。
もし、「文章そのものではなく、内容が重要」であることが当然なのであれば、文章に長さは必ずしも必要ないはずだ。
アインシュタインの重要な論文はたったの6ページだったんだとか。(高校の教師談。事実かは不明。)
仮にそれが事実だったとして、俺はそれを理にかなっていると思った。文章の長さは、内容そのものと直接の関係はない。伝えるべきことを端的に伝えれば、それ以上の言葉は必要ない。それどころか、長くすると簡潔さを失い、要点が見えにくくなる。
何かを伝える上で「短さ」は重要だと俺は考えた。同じ内容なら、短い表現で表すことができた方が優れているとさえ考えた。でなければ、なんか文章の量を水増しするために書いたみたいじゃん。そしてそんなものは馬鹿馬鹿しい。
俺はそう考え、読書において、そんな水増しっぽい長文なんぞは、内容が乏しいと感じるくだりをどんどんすっ飛ばして読むし、そうしてそもそも本自体読まなくなっていった。
書籍がどれも分厚い。このことが滑稽に感じる。どれも「書くべき内容があるからその限りにおいて書か」れたものではなく、分厚さを備えるためにわざわざ書かれたものに見えるからだ。見えるだけじゃなくて、実際にそうだろう。
そんなものは読めばわかるし、その厚さを見ればそもそも読まなくてもわかる。
本という長文を「わざわざ書くという意図」のないところに、あんな長文が自然と生まれるわけなかろう。全部、字数欲しさに書かれたものにすぎない。でなければ、「冊子」で出版してみやがれ。「世間の都合」でそんなもは不可能だが。だからこそ、その「世間の都合」のために書かれたものなんだ。ーー商業的な習慣、説得力と納得感、読むために読むという自己目的化した記号的な消費意図・消費行動ーーそういった都合のために、体裁、形式が守られた結果があの一律の分厚さだ。上辺のお約束事にすぎない。俺からすれば、書籍なんてものは「一冊の水増し」であった。100%水増しのただの水だ。水の水増しだ。
世間一般の人は恐らく、俺のように読解中に独自の手応えを感じた時点で読むのをやめるとかいうことは特にせず、最後まで読むのだろう。
それは俺に言わせれば、「読まされている」。あるいは「(わざわざ)読みに行っている」。内容を得ることが目的なのではなく、読むこと自体に、読み終えること自体になにか意味があるかのように感じている。違うだろうか。
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違わないさ。
反論できるのかい? 君に。
もし、字面を追うという表面的な行為に満足しているわけでなどなく、内容の有無や理解「そのもの」を重視しているなどと殊勝にのたまう奴がいれば、そいつはきっと「俺みたいに」まともに文章を読みなんかしなくなるだろう。
なぜなら文章というものはーー。
文章というものはやっぱり書くために書かれているからだ。
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俺は全く間違っていた。
内容があればそれでいいというのは大間違いだった。内容があればそれでいいというのは、極端に言えば、たった一文、たった一言でも事足りるということだ。現に俺は、以前、「書籍がどれも同じような厚さをしていることに笑ってしまう」と、ほぼたったそれだけの文言を記事として実験的に投稿したことがある。
今回の本稿はまさに、その「一文記事」の変形だ。言いたい内容はどちらも全く一緒だ。俺は全く一緒のことを、分量が全く対照的なその二つの記事で言おうとしている。前者は核心だけを述べ、後者はほぼ全て水増しでできている。後者は全て、その内容をチラリとでも思ったことのない人に向けて、一から案内するつもりで書いた。自分にとっては当たり前のことであり、いまさらなんの特筆性もないことを。
文章を書くとは、たぶんこういうことなんだ。(自戒)。
内容があればいいだとか、内容があれば分量は必ずしも必要ないというのは間違っていた。人は内容をそれと認めることよりも、「読書そのもの」にもっぱら興味があるみたいだからだ。たった一言のアイデアに、何冊、何十冊もの書籍を凌ぐ価値や意義を個人が見つけることだってあるというアイデア、イメージを持つこともないのだろう。
書くために書き、読むために読むというのが作文&読書の世界なのだ、きっと。
書くこと自体に意味があり、読むこと自体に意味がある。
俺はこのことに昨日気がついた。
どうりで、どんな文章もくだらなく見えたわけだ。どうりでと言うか、どんな文章もくだらなく見えたのはそういうことなんだろう、と考えてる。漫画のキャラが動かなかったり、小説に音楽がないことに文句を言っているようなものだったのだ。ある意味ではそれは正しいが、しかし全く的外れでもある。
「俺は小説は音楽が鳴らないから嫌いだ。映画には豊かな音楽表現があるから好きだ。」
たしかに、そういう好みがあってもいいし、実際あるだろう。おかしくないし、普通だし、
しかし、全くおかしい。
ーーなぜなら、小説とはそういうものだからだ。
俺は文章の根本を否定していた。文章なんて書いても仕方ないし、読んでも仕方ない。そして実際に俺はそう言っていた。
俺が文章嫌いなのは「そういう」話であった。
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文章を書く以上、その考えは脇へ置いておかなければならない。
なにしろ、文章とはそういうものだからだ。
俺はそのことに気がつかないでいた。
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いま俺は、自分のそういうある種的外れな考え方に反して、読むために読む文章を書くために書いている。恐らくこれこそが正当な手法に違いない。
これまでの自分に言わせれば「バカバカしい」文章の連なりが、いまこうして生み出されているが、なんか言われてみれば、これが作文であるような気がする。
楽しいかと言われれば疑問だし、それに、手間もかかる。
しかしとりあえず、作文ってこういうことでOk?
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