私は不幸なのか、そうでもないのか② 親と兄の長い話
こんばんは。
見てくださった方、ありがとうございます。
ここ数日は花冷えというのでしょうか、晴れ間に挟まった風雨の日にこれも春だなと感じます。
交通事故シリーズの最中ですが、
前回書いた、私の家族と私のややこしい状況について閑話として挟みたいと思います。
まずは、なぜ私は実家に滞在しないのか、について。
私はぜんそく・アトピー・動物から食物まで多々アレルギー持ちで、
両親は私が目の前に居てもヘビースモーカー、さらに実家は猫多頭飼いで猫毛(とホコリ)にあふれ、隙間ありの薪ストーブによって冬は煙が充満します。
猫アレルギーですが、私は猫好きです。
野外の人懐こい猫にマスクを着けてぐへへと近づいて撫でまわしては、その後しっかり手洗いうがいをしています。
事故後1回目の退院後は10月末でした。薪ストーブによって実家の環境がさらに悪化する時期です。
昔、私は正月に一週間実家に滞在し、息がまともにできなくなって休日担当医に行った結果「アレルギーによる肺水腫」と診断されたことがあります。
肺に水がたまって機能が落ちて必要量の酸素を取り込むことができず、ただただ息が苦しい病気です。
過呼吸の状況に近くどんなに吸っても足りなくて、正月時期で症状が出た時は近くの病院は開いていませんでした。布団の中で一晩中苦しみました。
これがあと半日続くなら死にたい、と思うレベルで苦しいです。とんでもない、これまでの人生で最大に苦しい日でした。
その時の医師が「原因はアレルギーでしょう。患者は動物アレルギーがあるし、ご自宅は猫がいっぱいいるとのことでしたので。」と言いましたが、親はその言葉を聞かないふりを決めました。
(私としては猫だけではなく、たばこと薪ストーブの煙も原因だと思っています。)
そんなの娘が我慢すればいいことです。娘は死ぬわけではありませんでしたが、猫は外に追いやったら死んでしまうかもしれませんし。
娘はかわいいが、猫だってかわいい。
「これを機に娘のために猫をどうにかしろ」といった医師に親はご立腹でした。そして両親は、医師が言った原因を聞かなかったことにしました。
実家は相変わらず私に厳しい環境です。
だから私は実家に長期滞在したくないのです。
そして、環境は悪いが、しかし悪い親でもない。というジレンマに困るわけです。
一応その都度娘に何かあったときは心配してくれます。私の親よりダメな親はいっぱいいます。
たまに親にお金を渡すこともありますが、
『私を育ててくれた時に使っただろうお金を返しているということにしよう』
と思いながら渡します。
とはいえ、今考えてみると、私の親がそのまた親(私の祖父母)にお金を渡している姿は見たことがない・・・。これは気づかないほうが良かったやつですね。
その後実家に寄ると、私だったら高くて買わない値段の最新のドイツ製掃除機があったりします。実家には色々とお金がない人は買わないだろうものがあふれています。
『いや、これ買いたくて「お金ない」って私に言ったの?!』と思って嫌になりますが、
幸せそうに「これ、いいのよ!すっごく吸い込むの!」とか言っているのを見るとまぁいいかと思います。私は親に甘いのです。
額が大きい買い物と言えば、最新機能にあふれた軽の新車も買っていました。
話を聞く限り、長男(私の兄1)に買ってあげたようでした。
兄1は私の車両保険のついた車で事故をし、私の車両保険額をアップさせたのに何も詫びを言わなかったとんでも野郎です。
そう、兄1は私が親にお金を渡すきっかけを作る人間です。
悪徳ホストもかくやというレベルで親からお金を吸い上げます。さきほど書いた某ドイツ製高級掃除機ばりの吸引力です。
そしてそれは、兄→親→私、という連携を時にとり、私まで吸引されるわけです。
兄は、何浪もして大学に入って何留年もし、学費を持ち逃げして失踪し、失踪先で事故を起こして「お金は親からもらってください」と親の連絡先を言い逃げし、末っ子の私の大学用に貯めてくれていたらしい貯金と、親の老後用貯金を全部吸い取って行きました。
兄の失踪は半年以上にわたりました。
母は疲弊し、毎日家には森山直太朗の「いつかさらばさ」とか「今日の日はさようなら」とかがリピート再生されていました。
私も森山直太朗は好きです。
しかし初期の作品を聴くと、昼間っから酒を飲み、机につっぷして泣いている荒れたこの時期の母を思い出します。
音楽と記憶の相性は抜群だといいますが、まさにその通りです。
そして、母の憔悴ぶりに奮起し失踪した兄を探しに行った父は、
兄を見つけて帰宅する際に交通事故に巻き込まれ、一生痛み止めを飲み通院し続けないといけない大けがを負いました。
交差点で青信号になったので発進した父を、赤信号を無視して猛スピードで突っ込んできた車が吹き飛ばしました。父の足はつぶれました。しかも犯人は家の近くの学校の先生でした。
その先生は赤信号を無視して人に大けがを負わせたことで免停になりましたが、その時も後も平然と何食わぬ顔で生徒に倫理感や責任感を説いていました。先生は私に人間不信の気持ちを植え付けるきっかけになりました。
あれこそ、完全なる完璧な「反面教師」です。
足を悪くしたので父は長時間歩けません。血行が悪くなると体調が悪化し、気圧の変化も苦手なので飛行機にも乗れないと思います。
仕事を定年退職して世界旅行をしたい、アルプスに登ってみたいという父の夢はかなわなくなりました。
父は定年を待たず、50歳くらいで仕事を辞めざるを得なくなりました。
父の怪我から発生した病気は怪我をする前年に指定難病から外された病気で、父は障がい者認定もとれずただの無職になりました。
事故の保険はおりましたが、父の怪我は認定が難しい神経系の症状で、担当していた交通事故に詳しくない医師にもらったざっくりした診断書の残念さもあいまって、慰謝料は父の一生を台無しにしたとは思えないほどずいぶん低く見積もられてしまいました。
しかも相手の車両保険は教職員共済で、その担当者が高圧的で後遺障害に詳しくないために話が通じず父は毎回対応に苦労していました。
背中に腕が回せないくらいムッキムキだった父はがりがりに痩せ、退院する頃にはしょぼくれたおじいさんみたいになっていました。
最終的には一生分の通院治療費ももらえませんでした。父がもらえたのは定年まで勤め上げたら出たであろう退職金の補填分くらいでした。
私は当時高校2年の終わりかけ、受験生時代は家の中も大荒れで金欠で先も見えず、とにかく不安でした。兄が失踪中だったり父が入院したりで家族は誰も娘の受験どころではありません。一時期私の成績は赤点ギリギリまで落ちました。
でも大学は金欠から国立一択となりました。国立に受からなかったら就職でしたが、どうにか大学には行けました。
流石に私も疲弊していました。私の受験シーズンにやらかした兄1と、兄1が兄妹の中で一番大事そうに見えた親に苛立ちました。
私はやってやりました。合格発表の日、受かったのを確認して家に帰り、家にいた母に言いました。
「私の受験番号、なかったよ。ごめんね」と。
あのときの表情が抜け落ちた母の顔を思い出すと未だに申し訳なくなります。酷い嘘をつきました。
5分後くらいに「ごめん、大丈夫、受かってました。さっきのは嘘です。」とへらっと言った時には母は怒りました。泣き怒りしてました。
しかし、受験の邪魔をしたことはさておき、父の一生を台無しにしたことも何も兄1は気にしていないように見えました。
彼は『自分が一番不幸である』という思想の人間なので、他人の人生にどんな迷惑をかけようがへのカッパ程度なのです。
彼はどうにか大学を卒業してニートとなり、その後親のお金(多分私が渡したお金)でさらに専門学校に何年も通い、卒業して、現在はどうにか週に何日かスーパーでバイトをするようになりました。
彼は親と同居していて生活費はかからない(生活費払えよ、と思いますが)ので、バイトで稼いだお金でゲームを買って課金し、たまに払いきれない分やら変なサイトを見てやらかした分の支払いを親がしているようです。
そう、そういう時にも親は私にお金を無心するのです、多分。
ということで、私の苦しみの一切は兄1が原因となっており、
それもあって私は親がただ可哀そうに思えてしまうわけです。
父も母も、兄1がやらかさなければ、とても穏やかで明るく楽しい老後を送っていたはずです。
そう思うと親が可哀そうすぎて泣きそうになってきました。
ちなみに私には兄がもう一人いて、次男なので兄2と呼ばせていただきます。
兄2とたまに「親がいなくなったら兄1をどうしたらいいのか」話をします。
兄1は何も我慢せず暮らしているので長生きするでしょう。でも兄1には生活能力もなければ、挙句の果てに問題しか起こしません。しかも失踪癖があります。
恐らくこれまでと同様、何か事案を起こしお金が必要になったりすると彼は「弟妹の連絡先です、あとは弟妹へ連絡してください」と言い逃げ失踪するでしょう。我々は消費者金融とかに追われて破産します。自分の家族を道連れに破産です。
でも、あまりに兄1について親に訴えると、最近たまにある事件のように親が兄1を道連れにしそうでそれも悲惨すぎる。だから何も言えないわけです。
兄2と私は兄1の今後を背負う羽目になっています。
何も言いませんが、親も「兄1をどうにかしないと死ねない。他の2人に迷惑をかけてしまう。」と心底悩んでいると思います。
それもあってまた、我々は親を憎めない部分があるわけです。
そして私も、将来迷惑をかけたくないから子供は作りたくない。
子供が私と同じようなアレルギー体質になっても可哀そうだし、兄1によって我が家の家計が崩壊しても可哀そう。
私の二の舞になる可能性があるなら可哀そうだから子供はいらない、という状態です。
兄2のところはずいぶん長いこと同居していますが結婚はしていません。
私も兄2も、兄1によって人生を狂わされ、今後も狂わされていくでしょう。
でも、多分両親は「兄1をこうしてしまったのは自分たちの育て方が悪かったんだ」と思っています。だからどうにか兄1の責任を取らなければと頑張っています。
確かに、親の育て方は兄1があんなことになった原因の1つではあるのでしょう。
幼少期、我々兄妹はそれなりに親にたたかれたりなじられたりしながら育ちました。
ある日、私が高校生の頃くらい、
私が幼稚園の運動会の徒競走をしているときに親が私とは全然違う子供をずっと私だと思って撮影していた話が出たか何かで昔の我々の映像を見ようと盛り上がりました。確かその場に母はいませんでした。
父は「これかな?」とか言いながらビデオをデッキにセットし、再生ボタンを押しました。
映像で映し出されたのは私。1歳か2歳くらいです。
ハイハイしつつ「あー、あわー」と言いながら母に近づいていった私が、憤怒の表情の母に「こっちに来るな!」と怒鳴られながらはたきとばされていました。
私からするとこれは記憶にないので衝撃映像でした。
父は唖然としていましたが我に返り「見たいのはこれじゃない、間違えた!」と慌てながら、「いや、お母さんもちょっと育児ノイローゼだったんだよ・・・」と言い訳しつつ別のビデオに切り替えていました。
そういえば、うるさいと物置に閉じ込められて鍵をかけられたりしたような記憶もあります。私の時は兄1・2がこっそり開けてくれていたけれど、兄1は長男なので小さい頃は誰も助けてくれなかったでしょう。ちょっと成長したあたりで物心ついた兄2が救いに来たかもしれませんが。
ビデオの私と同じようにたたかれなじられもしたでしょう。それで兄はひねくれたり愛情に飢えた子供になったかもしれません。
しかし、そんなもの学校に行ったり仕事を始めたりしたら解決するものです。
うちの親くらいなら大したものではない。兄2も私もそれなりに友達もいるし自力で生きています。トラウマはあろうが、本来はそれなりに生きていくものです。
とはいえ、私はたまに将来のことを考えると生きているのが嫌になります。
失明するかもしれない眼、いつ悪化するかわからない免疫不全や食物アレルギーのアナフィラキシーに、病院へのPTSD状態。それに加えて、親と兄1の心配。
立ち寄ると「子供はまだかな。あなたは子供が嫌いなんだろうが、うちの息子は子供が好きだから可哀そうだ」と言われる義実家もあまり行きたくない。
私は子供が嫌いなわけではありません。ご両親が基本はいい人なだけに、こういう時にやりにくいことこの上ない。真綿で首を絞めてくるパターンです。
旦那は「君の実家はたばこも猫もすごいし、きれいじゃないし、家庭も複雑だし。君もアレルギーが多くてわがままみたいに聴こえるし。自分の家族には内情を紹介できないよ、うちの親を心配させちゃうだろ。」と笑ってきますが、私は笑えません。
暗に『君の事情と君の家族の話をうちの親にしないでくれよ』と言っているとしか思えないので私も空気を読んで義両親には何も話しません。
柑橘に食物アレルギーがあるのに、義実家で出されたオレンジジュースを免疫抑制剤を飲みながら飲むわけです。義実家のみなさんはフルーツが好きです。私のアレルゲンのオレンジ、リンゴ、梨、みかん・・・毎回何かしら登場します。いつか抑制に失敗して死にそうです。
失敗して死んだら「どうして言わなかったの!うちが殺したみたいじゃない!」と義両親は思いそうですが。
そもそも、私が愛用する(羽目になっている)免疫抑制系の薬は胎児に悪影響が出やすく、流産したり子供に障がいが出やすくなります。
子供が欲しいなら免疫抑制剤を飲んではいけないけれど、旦那は自分の実家が好きで年に1度は帰りたがり、私はそれに連れられてフルーツを摂取します。
多分、それの影響やらで私は流産しています。
1度は確実に病院で妊娠認定が出た後に流産していますが、ほかにも、妊娠してそうな時にアナフィラキシー状態になったりアレルゲンを摂取する状況になって薬を飲まざるを得なくなったことがあります。その後の体の症状的に流産したんじゃないかなという感じですね。
でも、旦那の言いたいこともわかります。
うちの実家は複雑怪奇で、私の状態も複雑怪奇です。
運も悪いのでいつも変な事案に出くわします。
前の車が急にバックしてぶつかってきたり、泊まったホテルの最寄り駅が朝起きるとフーリガンに破壊されていたりします。
飛行機の座席ではなぜか私のモニターだけ言語が「Portugues」から変更できず、お詫びにビジネスクラスのアメニティセットを貰いました。そして私はハリウッド映画をポルトガル語のまま頑張って観ました。
結果として笑える話も多く日々のネタは尽きませんし、毎回しっかり生存しているのである意味何かに守られているかもだけど、苦労は絶えません。
私も人生で一度は実家でごろごろ楽をしてみたい。
みなさんにも、
絶対できないけど、人生が違ったらやってみたいこと、やってみたかったこと、
があると思います。
それを自分とは違って実際にできている人を見ても、幸せな気持ちになれるような人間でありたいなと思います。
最近は、さっきの件で言うと、『ポルトガル語で映画を見ようと思うような自分がポルトガル語モニターに当たって良かったな』と思うことにするようにしました。
我慢できない人が当たったら激おこして機内が騒然としたかもしれませんし。みんなの安寧のためによかったのです。
そして、そろそろ何かいいことがあってもいいんじゃないか。
宝くじでも当たらないかな、とか思って過ごしています。
みなさんにも、大変なことがあった分いいことがありますように。
それでは、良い夜をお過ごしください。