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回想録を書いてみる no.1 ~ゲーム開発オープンワールド時代~
私が幸いだったのは、いちばん最初の仕事がアーケードゲーム開発だったこと。
私はまだ学生だったがすでに開発マニアだったので、学校のLabであらゆる開発技術の再現をしていた。それが高じて、ビジュアル、演出アニメーション、サウンド、3D、ドットがそれなりに出来る子として、教師の紹介で「器用なアルバイト」として採用された。
かつ、プランナー志望だったこともあって、デザイナーにしてはしっかり仕様書(当時は分厚い紙束)を読むという点も面白かったと、正社員に登用された時に教えてもらった。(氷河期末期で求人票すらなかったような時代、数少ない採用試験には落ちた時だったので拾ってもらったのは素直にありがたかった。)
私の席は社長の目の前で、私の以前には同級生や同い年のアルバイトやインターンが何人か雇われては去っていった。 分厚い仕様書を片手に、筐体やLinuxをいじくり回す姿は、比較的に奇妙だったろうな。
ちなみに、イラストはあまり描けなかったが、イラストレーターという仕事がすでにあったので、あまりマイナスにはならなかった。 CG(コンピュータグラフィックス)デザイナーと、イラストレーターという区分が主流の時代だった。
話をアーケードゲームに戻す。
当時はインターネットがまだまだ割高で、一般家庭には普及しきっていなかったので、離れた場所のユーザーと対戦しようと思うとゲームセンターに行くのがお手軽だった。
アーケードゲームの筐体は、おもちゃに画面がついたようなものが多い。 レバーを引けば画面の中のキャラクターやギミックが、クソデカボタンを叩けばステージが、ハンドルを回せば車が動く。また、ギミックが連動しているので画面表示されない「見えないUI」が当たり前の日常として存在していた。 プレイヤーにとって、プレイと画面が非常に近しい。
さらに時運も良くて、最先端のネットワークシステムと、amiiboのようにフィギュア(に仕込まれたチップ)を読み込んでプレイデータを持ち歩くことができるシステム、まだあまり普及してなかったタッチパネルと複数画面連動筐体、まさにゲームの粋を集めに集めまくった開発に関わることができた。
どこに行っても同じゲームが遊べる体験を作る。 これに関われたのは「世界中の人と一緒に遊べるゲームを作るぞ!」と志を抱いていた私にとって、これ以上なく最高の幸運だったと思う。
それに、当時はまだ「ナラティブ」どころか「UI」と言う言葉さえ無くて(あったのかもしれないが聞いたこともない時代)、UIのデザインだけでなく、インタラクションと演出アニメーション、それから3Dも1人で担当できた。私はモデリングとエフェクト作成が好きだったので、今でいうUIのデザインにもバンバン使用した。
今思い返してみても、UIに3Dを使用するという試みをやっていたゲームは、当時はそこまで無かったと思う。当時の私は間違いなく若手で未熟、だからこそ変なことをよく思いつくし、エラーと共によくわからんことも起きる。
一応書いておくと、最も影響を受けたのはカプコンの「ブレスオブファイア3」と、ヴァニラウェアの「オーディンスフィア」。 多重スクロールの背景、3Dと2Dの融合、3D風だが違和感のないイラストアニメーション、どうやって再現できるのかわからずに、Light wave7.0(3Dソフト)をいじくりまわした。その研究過程で「よくわからないが面白そうなネタ」がストックされ、技術が伴うと共に形にすることができたのだった。
当時の技術は、2年遅れで輸入される技術本とゲームそのものくらいしかなく、今のようにインターネットに情報は転がっていない。ファミ通のインタビューを読んで拾うか、体当たりで時間をかけまくってやるしかなかった。お金もないし、地方でゲーム会社も3件しかないような土地。 (現代様々です、ありがとうインターネット。)
現代のような便利なものは何もない。ないからこそ壁や枠もなかった、何にもない。
ゲーム開発オープンワールド時代に生き、地方の片隅にいながら、自覚もなく世界の最先端に立っていた。
開発にはWindowsとLinuxを使っており、ゲームエンジンらしきものもなく、プログラムをベタ描きしていた時代。私の横にはLinuxがあって、UIや演出をすぐに確認できるよう、先輩方が「簡単なプログラムを書くだけで更新できて確認できる仕組み」を作ってくれていた。
キーボードの横にはアケコンが刺さっていたので、触感を試し放題。試行錯誤し放題。エラーとも戦いたい放題。 神から授かった才能はリズム感だけ、と言えるくらいにはリズムに自信のあった私は、気持ちのいいタイミングや遷移、視点誘導を探してリズムに乗りまくっていた。 私の「手感触り」のベースはリズム感にあるが、作り方は、この時に培われた気もする。
中でも面白かったのが、「2Dのイラストを中心に前後に奥行を回り込み、表示優先度を入れ替えて3D空間のように見せる+サウンド変化」技。今でこそ気軽に再現されているが、当時はプログラムですべて制御していたので、相当難しい技だった。
レバーを動かすだけで回り込みと同時に表示物と背景も変わり、今でいう「シームレス」の走りのようなことを再現しようとしたことがある。
わたしは動画(Directorというソフト)を使って構想を共有したが、私と同い年の同僚のプログラマでは実機で再現できず、先輩や神業プログラマーの社長までこぞって再現方法研究してくれた。
周囲の理解と協力、ノリがあってこそできた研究でもある。
とまぁ、私の入り口がこれなので、感覚的にはUIとゲームの間に仕切りがなかった。UIでなく「遊び」を作っていると感じていたし、今もこの感覚は自分の軸、土台として残り続けている。
余談だが、自分の作ったビジュアルがどうやって動くのか、この早い時期に理解できたのは今でも幸いだったと思っている。(後にこの経験を活かし、自分でプログラムを書いて、1人でゲームを作り切ることになる。)
社員になって以降、労働時間も変則的で、いつ出社していつ退社しても良かったので、筆が乗れば朝まで作業していた。やりたくてやっていたので、むしろ電気代を払ってくれていた会社に深く感謝していた。冷暖房も効いてるし。
また、プレイヤーが「カスタマー(客)」であるという強い認識を持った。よく「画面の向こうは生身の人間だ」と言うけれど、ゲームセンターに行けば私の作ったゲームを私の目の前でプレイしている人を観察することができたので、まさに生身の人間だった。
人の反応を見るのが好きな性分も相まって、仕事中にゲームセンターに入り浸っては、どんな反応をしているのか観察し、データを取って、次の開発のアイディアに繋げていた。
プレイヤーとは客であり、自分のデザインひとつで反応が変わる。また、ひとつのデザインに人それぞれの反応を抱くし、ゲームにのめり込むと意識さえせず楽しむ。 アーケードゲームは複数本の制作を担当したし、最初の仕事以降はクライアントがついてシリーズ作品を担当したので、似たようなUIに対して仕掛けを変えるという工夫ができた。これは人気シリーズになり、派生を含めて6作品ほど手掛けている。
UIの見た目だけ、ゲーム状態に合わせてエフェクトや背景を変化・アニメーションさせる、コナミコマンドのような隠し操作を提案・追加してみる、ランダムで絵柄が変わるようにしてみるなど、様々な工夫を行った。クライアントのプレゼンにも当然ついていったし、ロケテを行ったり、ゲームショウにも出展した。 試行錯誤の中で自分の出した「気持ちよさ」「裏切り」「見栄えの良さ」を少しずつ工夫を変えて、それぞれのタイトルにつっこんでいた。
それは私の明確なイタズラ心でもあったのだけど、小学生時分からゲーム(あそび)を作ってはクラスメートに共有して反応を見、アップデートを重ねるという「遊び」をしていた私にとっては、これも当然のことだった。
同僚やクライアントの評判は上々で、「ほっといたらどんどん面白くなる人」という地位を得て、社内最年少にしては広すぎる裁量を与えられていったのだった。 1本の開発に3ヶ月、さらに同時期に掛け持ちで、のいうハイスピード開発の環境だからこそ出来た試行錯誤でもあったので、現代では再現出来ないと思う。
スマホになって、東京に来て、電車の中で自分の開発しているゲームを遊ぶ人をたまに見かけることもある。 が、当時よりもゲームと人が少し遠い気がするのは何故なんだろうな。
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