見出し画像

⑥「農民文学会」70周年に思う 不思議を辿り道中の落とし物を拾う~佐久・望月―式部からの発信~鳴き続ける蟋蟀でいたい(農民作家・飯島勝彦)

 私が会員になっている「日本農民文学会」が、今年創立70周年になった。年3回発行する会誌(春・秋・冬)の秋号(9月)と冬号(1月)を記念号とし、会員の「農への思い」を特集するとあり、6月の締切日までに規定の原稿用紙5枚弱を送った。

 会は昭和29年(1954年)11月の創立。翌30年4月の総会で初代会長に和田伝がなっている。同年5月に会誌「農民文学」を創刊。8月の第2号に「農民文学賞」の創設を発表。31年から現在まで毎年続いている。
 私が入会したのは平成14年(2002年)で、今年で22年になる。地元の農協を退職してから8年後、63歳の高齢加入だった。長野支部へも入り、同年の支部会報(16号)には当年入会の5人を加えた17人の名簿が載っている。支部は昭和52年(1977年)の発足、今年で47年になる。支部会報の発行は昭和62年からで、今春37号になった。入会時には顔と名前を覚えきれないほど盛会だったが、私が支部長を引き継いだ平成21年には13人、今週の交替時には6人に減った。入会時は新潟県と千葉県にもあった支部が今は長野県のみ。希少価値がつき貴重な存在になった。

 長野県の会員には農民文学賞の受賞者が多い。鬼籍に入られた方や、宅内や施設に隠遁された方もあり、ちなみに現在の6人中4人が受賞者である。コロナ禍でできなかった支部総会を4年ぶりに開き、15年ぶりに気鋭の元信濃毎日新聞論説委員に支部長を継いでもらった。
 ほっとして、70周年の一文をと物捜しをするうち、書棚の隅の古い小箱に目がとまった。覚えがなく、興味半分で開けてみると、浅い引き出しの下段のほうに封筒が2通あり、どちらも農協系統の「家の農協会」からのもの。B5ほどの、セピア色の罫紙が一枚ずつ入っていた。

 一つは昭和38年10月、「読者相談部」からで、「依頼のあった『農民文学会』についての回答」とあり、一つは昭和40年6月付で「応募された『地上文学賞』懸賞小説が佳作になったので、規定により賞金(5千円)を送る」というもの。日付でみれば、前者は農民文学会の創立から9年目。私は24歳で、結婚を直近に控えた頃。後者では半年前に長子が生まれ、農協勤めは7年目になっていた。

 前者の回答書には、農民文学会の所在は「家の光協会別館内」。会費は普通会員年額700円前納。維持会員は毎月500円。会員は550名で、維持会員が30名とある。後者の入賞佳作(「遅い春」)が「地上」誌に載り、初めて活字になった嬉しさは忘れないが、賞金があったのは覚えていない。
 今も鮮明なわが初任月給5千円(昭和33年)からみれば、前者の維持会費(年額では6000円)も後者の賞金もかなりのモノだったなと、改めて思う。そして、それら埋(うず)みものの発見を機に、辿りきた道中の落とし物を拾っておきたい思いが湧いた。

 顧みると、私は当会発足の昭和29年に高校入学。30年の「農民文学」誌創刊時は高校2年。「農民文学賞」開始時は3年で、翌32年3月に卒業し就農した。本会の設立に至る胎動はつゆ知らず受験勉強に明けくれ、卒業後は文学に浸れる日々に進学断念の傷心を癒やしつつ、山本茂実の「葦」を購読し、「文学界」新人賞へ応募したりした。
 2年目の秋に村の農協へ就職。系統に「家の光協会」があり、「地上文学賞」があるのを知って投稿を初めていた。が、佳作入賞より2年も前に「農民文学会」の問い合わせをし、折角回答を貰いながら当会への加入も、文学賞の応募もなぜしなかったのか、不思議である。これまで、当会との関わりは平成10年の地上文学賞受賞が縁で、地元紙記者の紹介によるものと思いこんでいた。記憶が飛んでしまった35年ものタイムラグも不思議である。

 見つけた2つの不思議を辿ってみると、その頃の私は職場も中堅になり、青年団や公民館の地域活動に関わり、結婚を目前にして、気ままな文学少年とは決別しなければならない時期になっていた。
 30年が過ぎ、予定より早まった退職を不本意としつつ、傷心を癒したのはやはり文学への回帰だった。前ぶれは、退職の翌年にきた。

 村落の中央を流れる布施川の上流に、産業廃棄物の埋立地を造るという事件が起きた。地区を挙げて反対署名をし一件落着とみえたが、安全なもの(安定型5品目)だけにするという業者の言い分を町と区長会が認可。2haの山林を伐採し直径50m、深さ10mの穴を掘ってしまった。書名は「全ての産業廃棄物」に反対だったのである。
 現場の隣地に住む老婦人の来訪で知り、反対運動にとり組むことになった。が、住民は安全宣言の圧力に沈黙。10人余の有志で「布施川の清流を守る会」を結成した。現地探査を繰り返すなかで、協定違反の「管理型」廃棄物が多数投棄され、危険な化学反応を起こしている現物を押収。「長野県廃棄物問題研究会」の協力を得て収管した。

 それらのてん末と、行政や業者との交渉経緯を、その都度「守る会ニュース」を発行し全戸に知らせた。住民の沈黙も徐々に緩み、投棄を強行できなくなった業者は、守る会の会長(私)に対し「かけた経費1億24万円の損害賠償裁判を起こす」と脅迫。会は県の研究会等と連携し「こちらは業者に対して原状復帰を求める裁判を起こす」として対決した。
 結果、業者は掘削した穴を埋め、裁判所への提訴もなく処分場を撤退した。投棄した廃棄物を運び出し植林をする原状復帰はできなかったが、ともかくも村落一帯の用水汚染は弱一年の短期決着をみた。しかし、トラック30台分の投棄済廃棄物は、今も布施川上流の山中に埋まったままにある。
 そのてん末を書いた小説(「鬼ヶ島の姥たち」)が「地上文学賞」になり、再び家の光協会の「地上」誌が縁で、還暦を過ぎた農民文学会員が誕生した次第である。

 〖翌年、当処分場の隣接地(山林2ha・佐久市分)に、市内の建設業者が産業廃棄物の焼却炉を建設。その時は私が布施地区の区長会長をしており、望月町布施地区と佐久市岸野地区の、行政体の異なる両区が連帯して住民の対策委員会を組織。焼却停止まで5年間、廃業確認まで6年間、合計11年間の長い反対運動をした〗

 入会以後は、農民文学会のフィールドで「農民文学」誌と支部会報に書いてきた。
 見つけた古い「回答書」の、60年前の会員数の多さを羨み、入会時の長野支部の活気も羨ましいが、それはこちらが一概に嘆くことでもない。日米安保条約等による長年の政府の農業政策が農村を衰退させたからで、それは、年月をかけて仕組まれてきたのである。
 農業者の人口を1%足らずにし、平均年齢を70歳にし、食糧自給率を38%に貶めながら、直近の法改定でもなお輸入の拡大と大規模経営を謳い、各地で戦争と異常気候災害が続き、温暖化による世界の食糧危機が深刻な現在でさえも、「これからの成長産業は軍需(兵器)と農業(食料)である」と企む産業界(大株主)の声を見逃すことはできない。どちらも消耗品で、際限なく大量需要が確実な“儲かる商品”だからである。

 久々に手許の「支部会報」を繰ってみると、16年前の21号で、母校の布施小学校が134年の歴史を閉じた閉校式の感想を、「地方壊し、農村崩壊を、生活とペンを賭けて証言するのが農民文学である」と書いている。
 今も、その思いは変わらない。そして、私にとっての文学は、傷心と挫折をのり越える時の、心を託せる同伴者だった。そのことを、本当に有難く思う。

 現在の会員は130人余だが、会誌購読会員を含め漸増傾向にあり、県内も支部に入らない購読だけの会員が増えている。文学賞の募集は毎年続いており、全国の農業系学科をもつ高校生を対象にエッセイコンテストも行っている。応募者や入賞者の中から新しい書き手が生まれるのを期待しつつ、農の行方、会の行方を見届けたい——ペンと共に。

 少年期の終りに読んだ「小説家」(荒正人著)という本に、「小説家になるなら①駅のホームを素裸で走り抜ける神経を持ち②結婚し普通の幸せな家庭などは持たぬこと」と書いてあったのを思い出した。
 件の「回答書」に応えて、もし60年前に農民文学会へ入っていたら、おれは今どうなっていたろう?——文箱を前に、深淵を覗くような気持で佇んでいる。



                           (2024年9月)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?