偽善が嫌いだった。
いつの頃だろう。「偽善」が嫌いだった。
自意識過剰が和らいだ頃からだろうか、そんなことは気にしなくなった。
「やらない善よりやる偽善」という言葉もある。偽善かどうかを気にする人も多いのだろうか。
今は、騙すことを目的としていなければ偽善だろうが、実際どうでもよい。
なぜ嫌いだったのか、なぜ気にしなくなったのか、少し思い出してみる。
思い出しているコトなので正確ではないが、なるほど「うわべだけ飾って善人のように見せかける」コトが悪いと感じていたのだろう。きっと人間を画一的、統一的なものだとみていて、善人は全方向で善人であるべきで、普段は善人でもない人が、たまに見せる善行を「うわべ」だと感じていたのだと思う。
そして、それを見抜ける自分を格好良いとしていたのだと思う。
情けは人の為ならず。
意識的、無意識的には関係なく、何かしらの「ものさし」に基づいて判断をしている。損得、好悪、美醜、快・不快など、何かしらで判断している。結局は自分のために判断をしている。
そういったこだわりも強かったと思う。
歳を重ねると分別がつくというが、「ものさし」は逆に曖昧になってきている。絶対が絶対でもなく、正義も一つではない。
本当の自分というものがあると思っていたが、本心も振れ動く。好きな自分、嫌いな自分、欲にまみれた自分、たまに良いことをする自分、どれも偽物ではない。
案外、カタチから入ったほうが身につくということも知っている。はじめは「うわべ」なことが多いと思う。うわべの大人であり、うわべのマネージャーである。それがいつしか少しマシになり、格好がついてくる。
そんなこんなで「偽善」は気にならなくなったようである。
むしろ、偽善からはじめて良いと思っている。
曖昧になったのか、もしくは寛容になったのだと思う。
実際、騙そうとする偽善もある。それはよろしくない。
偽善にこだわるということも、騙し合いの世の中、何かしらの意義があるだろう。
しかし、「うわべを取り繕って何か悪いのか」と云いたい。
本心は自分でもわからないことがある。善か、偽善か、いちいち考えてから行っているわけでもない。
だから、わざわざ相手を傷つけるために、偽善だと騒ぐのはやめてほしいと思う。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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