魚じゃない海の女のひと
寒くなるといつも通りの釣りができなくなってしまう。今年はそこそこ釣りに行けた。アジを沢山釣った。小さく生きている魚はなるべく手を触れずに海に返す。食べる時よりもうんと申し訳なくおもう。生きているからだろうか。
私にとっての釣りは唯一自覚できる強い信仰であり忙しないからだがすべて休息を許せる尊い時間。竿を海に落とし、待っているあいだ、ずっと海やそこに棲む生き物、海をいつも見下す空、飛沫、彼らに対してのみ祈っている。竿に魚がかかる時、毎回救われている。海によって生を許されていることが、手に伝わる魚による生体反応から具体的に示される。釣ってその日に捌いた魚はどんなものでも本当においしい。美しい味とかく。私はこのような現象を美しいと呼びたい。生に呼応して片時もそれを忘れられない因果が愚弄されない瞬間について、美しいと思う。
信仰はありますか?と聞かれたら最近は「海」と答えるようにしている。これは間違いなく信仰で、叶うなら海洋生物が精をなす為の欠片になりたいとおもっている。そのからだを捧げるとしたら海に、そして私は今この瞬間にいちばんに海の女のひとになりたいと願うが、捧げられないという事実があるからこそなのだ。逆向きになって釣り人であることで美しさをずっとそこで惜しいぐらい待つことができる。そしてまた次のあたたかい季節まで。
拷問部屋所属です