この世界はすでに終わっている
死、ということについて、私も考えたことがある。考えて考えて、一度答えが出たと思ったら、また悩み、考えて。
いくら考えても答えなど出てこない、正解などわからない。そう思いながらも、思考が巡ってしまうときがあった。
死んだら、どうなるのか。
天国や地獄というものはあるのか。
死後の世界があるのか。
霊になってさまようのか。
生まれ変わるのか。
そんなことを様々考えながら、私が一番怖かったことは、今こうして考えている私、という存在がなくなってしまうのは、いったいどういう状態なのか、ということだった。
私は今こうして思考している。しかし、死んでしまったら考えることはできない。なら、私は何をしているのだろう。何もしていない。何もない。無。というのは、どんなことだろう。
何もない、私もない、世界もない。何もかも。何もないのなら何を考えているのだろう。何もないなら何も考えていないのではないか。それならいったい、どうしているのだろう。なんにもない状態、を想像する……。
考えて考えて、その状態について深みにはまって、想像をしていくとーーいつも、気持ち悪くなった。
純粋に、怖かった。
ただ、怖かった。
そうして、ひとつ、こんな感じではないか、と思ったもの。あまりにも怖くて、選んだもの。というより、こんな考え方でいこう、と選んだもの。
それは、この世界はすでに終わっている、という考え方。
未来からすれば、過去はすでに過ぎ去ったこと。今、私がこうしているのは過去の積み重ねであるけれど、過去の私からしたら、今の私は未来の私。
それを積み重ねていくと、どんな先の未来もすでに現在 存在しており、未来の誰かからすると、今の私はすでに過去である。
つまり、終焉まですでに世界は進んでおり、この世界は終わっている。
死んだ後どうなるのか、それが怖かった私は、こう考えた。それは、死んだらすぐに生まれ変わり、誰かの私を生きる、と。世界はすでに終わっているのだから、その中の誰かになるのだ、と。
世界はすでに終わっているとしても、今の私からしたら未来はわからない。なので、それは問題ない。
なんていう逃れ方をしていた。
実際のところはわからないし、無、になってしまうかもしれない。
ひとまずのところ、私はそう考えている。
そうしてもうひとつ。
これは、どちかといえば、死、よりも、生きる、によっているものかもしれないし、とりあえず今の私の考え(といっても、もう随分前からのものだけれども)、というより決め事なのかもしれない。
それは、いつ死んでもいいように、生きる。
自殺はしない。
というもの。
今、この瞬間に隕石でも降ってきて、死んでしまうかもしれない。強盗に、災害に、交通事故に、様々な理由で、理不尽に襲われるかもしれない。それは、わからない。今、何が起こるのかわからないのだから、いつ死んでもいいように、今をしっかり生きていこう。
いつ死ぬのかわからない、今死ぬかもしれないのだから、自分で終わりにするのはやめておこう。
そんな考え。
自殺はしない、と決めている。
ふとしたときに、それを口にすることがある。
それはきっと、そんな考えがよぎってしまうこともあるからだと、思う。でも、たしかに、もったいない、とも思ってしまうのだ。
どちらにしても、いつ死ぬのかわからないのだから。それが自然に訪れないのならきっと、それは、今ではない。のだと。
それは荒唐無稽なことかもしれないけれど、私が私であるための、ある意味での魔女修行。それは、私が決めて、取り組むもの。私にとって、大切なこと。
いつ、終わりがきてもいいように。
後悔しないように、全身全霊。
死、が何かもわからずに、勝手に恐れを抱いてしまうのだけれど、答えはきっといつまでも出ないものだけれど。
私はそう考えて、生きてみている。