私には距離感が近すぎて嫌悪してしまうから、なのかもしれない
あら、まあ。なんてかわいいのでしょう。
ほらほら、そっちに行ったらだめよ。転んでしまいますよ。
とっても元気で、いい子だこと。
ねえ、僕は何が好きなの?
うんうん、そうなの。それはいいねぇ。
*
うーん、さて。この状況はどうしたものか。
別に悪いことではないけれど、何となくいいとも思えない。
息子も嫌がってはいないし、いろんなお話しができて楽しそうでもあるし、交流という意味ではいいのかな。
悪い人ではなさそうだから、大丈夫、かな。
*
何とはなく見ていてハラハラする。
それは当人同士でしかわからない感覚なのだろうけれど、私にはとても、ハラハラするものだった。
実際に、どう思っているのだろう?
端から見ている私には はらはら どきどき まるでアクションだ。
これをあえて捉えるなら、私には余計なおせっかい、という言葉が浮かんでくる。
それが余計であるか否か。そもそもおせっかい自体が余計なものであるか否か。いろいろ、考えてしまう。
少なく見積もっても私には余計だと感じてしまうのだけれど。
しかし、それは私の感覚であって、当人同士ではどうなのだろう?
きっと、おせっかいをする側は(そもそもおせっかいとも思っていないと思うけれど)、自分の思う行動をしている以上、それより他もないであろう。
では、それを受ける側はどうなのだろうか?
どんな気持ちがあるのだろう。
ご近所付き合いの、あの何とも言えない煩わしさ。しかし、それで成り立っているコミュニティがあることもわかる。けれど、私にはおどろおどろしく、ただただ不安の種を蒔かれるだけの、にたにたとした笑みが貼りついた恐怖。
私にはそれしか感じられないけれど、どうなのだろう。
例えば、もちろん全員ではないものの、ご年配の方が若い母を心配する根底には、私は子育てをやりきった、という自負があるからだろうか。
ただ、私からすればそれこそ余計なおせっかいだと思う。
それは、でも、私が感じていることであって、だれもがそう感じているとは限らない。し、意外と他の人はそんなことなんて思ってなくて、助けになっているのかもしれない。
そう考えていくと、私の心の狭さが浮き彫りになっていく……。
余計なおせっかい
何と業の深い言葉であるか。