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糸 ~プロローグ~

【あらすじ】 #オールカテゴリ部門  
 あのころ、私は中学生だった。
 当時は、何もかも不思議だった。特に、姉のこと。
 何を考えているのかわからなくて、何もかもが不安だった。
 その夏、姉との、日々。
 姉を通して世界を見つめていても、わからないことばかりが増えていく。
 様々な糸――光、雨、蜘蛛、つながり、それは心や想いまで広がっていく。
 それは、本当に、私の思うものと、一緒なのかしら。
 姉には、何が見えて、どうしていったのだろう。
 その心は――
 様々な糸を通して見える世界の、先には何が、あるのか。

            ※

 からりと晴れた空だった。

 熱を透かせるような光の雨が、際限なく降り注いでいるのが見える。おびただしい糸が地面につなぎ合わさっては くたり と形を保てないように、あちらこちらに光が広がっているに違いない。それは光だまりとでも呼べばいいのか、アスファルトに染み渡っては じりじり 言葉が浮かんできているように、熱を反射している。歩くたびに跳ねては飛ぶ雨の日の地面と同じように、上から下から、私の体はびしょびしょに濡れているのだろう。拭っても拭っても、滴り落ちる汗は本当に私の体を冷やしてくれるのだろうか。かえって地面に落ちた汗も溶け、私に戻ってきているのではないだろうか。

 けたたましい合唱がまた、暑さを倍加させている。五感で季節を感じる、ことはたしかに気持ちのよいことかもしれないが、この暑さに限ってはきっと、きびしいものだろう。四方八方いたるところから聞こえてくる命の灯が旋律となって、季節を表現しているかのようだった。ふぅ、と一息つく間に横を子どもたちが通り過ぎる。その身体から溢れ出るような熱気とその声のまぶしさに、今考えていたことが随分と独りよがりなものなのかもしれないと、感じざるを得なかった。

 道はひたすらになめらかだった。さえぎるものは何もなく、それだけにどこまでも区切りの見えない煩雑さがあり、足取りをかえって重くしていた。あまりの白さに憂鬱が染みこんでいく。この明るさが、心に影を落としている。……この影だけが、光の存在を示してくれている。正義と悪なんて、この光と影のように共存しないと生きていけないものなのだろう。明るいだけでは、きっと、生きていけない。……ため息をつく。ふと思いついて、手を陰にして空を仰いだ。微妙な視界の中で、世界がぼんやりとして見えた。

 そんなぼやけた世界を歩いていると、私の存在自体もぼんやりとしたものに思え、そのうちどこにいるのかを見失った。私はどこにいるんだろう。そんなささやかな疑問を感じる。わからない。くらくらと、日差しは刺すような鋭さを持って、体を貫いてくる。ひどく、頭がぼぅとする。痛い。痛い。

 ため息が漏れていた。大きく息を吸ったつもりが、思わず。

 これで何度目だろう。わからない。数えたくもない。でも、それは初めからわかっていたことだ。どうしても、今日だけは、変わらない。それとも、行こうと思わなければこんなふうにならないのかな。思わず苦笑する。そんなことができるなら、もうとっくにやめているだろう。それでもやめないのは――やめられないのは、

 思考に没頭してしまう心を抑えようとしても、難しい。私はいつの間にかに立ち止まっていることに気がついて、とりあえず歩こうと考えた。身体を動かすことに集中し、思考を振り払いたかった。首を左右に振り――ある家に目が留まる。古めかしい佇まいではあるが、手入れのよく行き届いている感じのきれいな家で、特別変わったところもない。正確に言えば、私が気になったものは、その家の軒下にあった。

 そこには、蜘蛛がいた。糸ははっきりと見えない。けれど、おそらく巣を張っているのだろう、悠々と我が家我が物顔でゆったりと構えており、その家の整った雰囲気とは、似つかわしくないように見えた。我ながらよく見つけたものだ、と妙な感心を覚える。

 音もなく、動きもない家からは人の気配など消し去っているように思える。まるでそこだけ時の庵から取り残されたかのような不気味な静けさに、何とはなく妖しげな魅力を感じ、まじまじと覗きこんでしまう。改めて見つめ直してみても、隅々まで手入れが行き届いているように感じられる。そのあまりのきれいさにかえって人の流れを感じられず、かといって無人の家とは思えない。写し取られたように、微動だにしない。くっきりと浮かび上がる中で、異様な存在感を醸し出している。目が離せなかった。そのまま自分も吸いこまれていきそうだった――と思う間に、奥のほうで戸棚の開く音が響く。姿は見えない。蜘蛛は動かない。いつまで待とうとも変わらない。本当に住人がいるのかどうか、疑った。まるで動きのない、聞こえたばかりの音がむしろ、幻だったのかもしれない。

 同じように動けないでいる私も、この絵画のような静寂の一部なのだろうか。動けないまま見つめるのは蜘蛛の姿で、心なしか蜘蛛も、私を見つめているように思う。同調するような動きにふと、蜘蛛が何を考えているのか、という思いが頭をよぎった。それはおそらく私が考えていることがそのまま当てはまるのだろう、私は蜘蛛で、蜘蛛は私で、同調するうちにどちらがどちらなのかわからなくなるに違いない。私がこの場を離れるときにはきっと、蜘蛛もこの場を離れていきたいに違いない。いっそのこと私が連れて行ってしまおうか――けれどもそれは、うっかり便器にいる蜘蛛を殺してしまった話しのように、思いこみなのかもしれない。結局のところ、何を考えているのか、どんな想いを持っているのかなんてわかるわけもなく、私にわかるのはただ、ぼんやりと映る、目の前のそれだ。そこにはただ蜘蛛がいて、何を見つめているのかまでは、わからない。

 私は蜘蛛を連れ出すこともなく、その場を離れた。歩き出してからも、心の中に渦巻いている思考が飽きることなく脳裏に映し出されていく。整合性もなく次々に幻灯が始まり、止まったり、動いたり。しかし、しだいに大画面で分割されているように、広がっていく。いや、きっと、違う。それはまるで、何かわからないものにがんじがらめに縛りつけられているかのようだった。羽虫が蜘蛛の巣に絡み取られていくように、飛び交っている考えが引っかかってしまったのだろう。たぶん、それは、私も。いまだにあの家の前に立っていて、動けないままでいるに違いない。そうやって目の前で次々と絡まっていく言葉たちを見ながら、私自身も少しずつ縛りつけられている。どくん どくん 脈を打つように、言葉たちは言葉たちで、動けないまま主張し続けている。……主張している? 伝えられずにただ、そこに留まっているだけなのかもしれない。

 そんな感覚を思いながら、足取りが重くなっていく。それは疲れや足に重りがつけられた、よりもむしろ、あの家の前に佇んでいるはずの私に対して、矛盾なく融合させるべく足に糸を括りつけ、引っ張っているかのようだった。引っ張られている私の足は、いつの間にか地面を蹴らずに宙を舞い、気がつけばあの家の前まで引き寄せられていくに違いない。

 なんて、そんなこと、あるわけ、ない。

 日差しは変わらずに暑かった。熱気が目を曇らせる。と同時に、思考を焼き払うように全神経が気温に集中する。息を整えながら歩くリズムに照らし合わせて、どことなく心が逸るように胸が締めつけられる。それは単に、運動によるものだろうか。口元がゆがむ。息を整えきれない。心の中で悪態をつく。そんなばつの悪そうに歩く自分に、イライラを覚えた。

 こうして私が歩いている理由はなんだろう。……行き先は、わかっている。でも、本当に必要なのはそこにたどり着くことではなく、そこに至るまでの間に何を見つけられるのか。なのだろうか。それとも、たどり着いた先で、何が見えるのか、なのか。わからない。せっかく見つけた蜘蛛も、ただ見つけ、見つめていただけで、それで終わってしまった。もうずっと、何も変わらない。汗が滴り落ちる。鼓動が、速くなっている、気がする。

 考えれば考えるほど、糸が絡みついてくるような気がする。蜘蛛はいまだに私を見ていて、本当に動けなくなるのを待っているのだろうか。それとも、

 周囲の音がしだいに大きくなってきた。ただ、大きいだけで、鮮明には聞こえない。何を話しているのだろう。音が混ざり、混ざり……。大きくなってきたよりもむしろ、私のほうがきっと、半分この空気に同化していた。眠気眼の うつら うつら した、あの感じだ。溶けこんだ中で、私は静かに冷たくなっていく。周囲の音に私の音がかき消され、静かに、静かに。そうやって、自分自身がどこかへ消えていってしまう、感覚。思わず、苦笑する。思考がこんがらがる。私は、何を、しているんだろう。

 水分を摂る。汗をぬぐう。そして、

 思い出したように、風がさらりと頬をなでた。やわらかな指で、そっと触れられたかのような、感触だった。拭いきれない汗に通るそれがあまりに気持ちよく、思わず目を閉じて身を任せてみる。優しく、さわやかな風がすぅーっと通り、ここにいることを教えてくれる。全身を包んでくれるかのような、そのぬくもり。ふいの出来事が、今までなぜ忘れていたのかわからないほどの、心地よさを思い出させてくれる。

 ――ねぇ……

 遠くのほうには大きな雲が見える。大きくもその場に佇んでいるその白が、くっきりとした存在感を醸し出しており、色の協調があることは理解していてもなお――どんなふうに描いてもなお、これほどの存在感は作りだせないと思う。そんなことを思わせた。神々しいまでの光に照らされて、雲だけではなく空までも誇らしげに見えた。から から 空が笑っている。その中から、

 遠く、懐かしい声が、聞こえた気がした。舌ですくい取るような、儚い音色だった。

 あの日も、からりと晴れた空だった。

 あのころ、私はまだ中学生だった。いつも何かにおびえていたように思う。わからないことが怖くて、見えないものが怖くて、仕方がなかった。

 けれども、姉は違った。違ったように、私は思っていた。姉にはわからないことも、不安も、悩みも、何もないのだろうと思っていた。その心の余裕が、様々な考えを生み出し、深みに届いていたのだろう、と。

 実際はどうだったのだろう。それは今でも、私にはわからない。でも、おそらく、いろいろなことに囚われ、考え、悩み、葛藤していたのだろう。そして、そのひどい葛藤からいつも笑っていた。心底楽しそうに。私に見えていたものは、それだけだった。だから、そんなふうにしか、見えなかった。

 すべてが不思議だった。姉の考えていることが、すべて。たいてい理解できなくて、私にもそんな心の余裕があれば、と羨んでいた。姉と同じくらい大人になったら理解できるかもしれない、と本気でそう考えていた。当時、理解したくても、どうしてもできなかった。それがたまらなく不安だった。……それよりももっと、姉にあきれられるのが怖かった。それが見えないのが、怖かった。でも、だからこそ、心の底から楽しそうに笑っている、姉の笑顔を見て安心をもらっていた――与えられていたのだろう。私はそこに、囚われていた。

 音の共鳴はさらに激しさを増した。強すぎる日差しはすべてを溶かし、すべてを、白く、塗りつぶして、いった。
 

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いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。