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本当に 見ているのかしら

 私がこれから話すことが真実だなんて、誰がわかることでしょう。

 それがたとえば、メディアに流れるとして、それが真実だなんてわかる人は、いるのでしょうか?

 与えられた情報を受けて、それをどの視点から見ていくのか、どの切り口を見ていくのか、それともそもそも見ていないのか。

 見ること、聞くこと、触れること。

 それを踏まえた上で、はたして本当に正しいものなんて、わかるでしょうか。

 私の語る言葉がすべて事実だとしても、私の語る言葉がすべて真実であるとは限らない。

 私の語る言葉を聞いてそれを咀嚼するうちに、それはまったく別の形となって、口から吐き出されるものなのでしょう。

 語る、うちに、無意識に、意図せず、騙る。

 それを利用して、何がしたいのかしら。

 それを利用して、なぜ扇動するのですか。

 あたかもそれが正しいみたいに。

 事実ではないことを、事実であるみたいに。

 なぜですか、なぜですか、なぜですか、なぜ?

 決めつけてしまう、そうであると願ってしまう?

 私には、わかりません。

 私の心が、わかりますか?

 私の行動に、私の心は透けていますか?

 それは、思いこみかもしれません。

 ただの、思いこみかもしれません。

 けれど、それが真実であると、事実であると、大勢の方が錯覚されてしまったら、それは、そうなってしまうのでしょうか。

 おそろしい。おそろしくて、たまりません。

 わかりますか? あなたには、わかりますか?

 私の声が、言葉が、心が、私が、見えていますか? 聞こえていますか? 届いていますか? どうなのですか?

 

いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。